2007年9月12日 (水曜日)

安倍総理辞意表明

 皆様お久しぶりでございます。夏休み・・・長崎で骨休めをしている間、ブログの更新がすっかり滞ってしまい申し訳ありません。では早速記事を書いて参りましょう。

 安倍総理が今日いきなりの辞意表明を行った。今後数日の内に新しい自民党総裁が決定し、総理交代の運びとなろう。

 国会が始まったばかりのこの時点での辞意表明は衝撃的で納得のいくものではないが、もはやあの力を感じられない安倍総理が続けていくよりは交代してもらった方が国民のためかもしれない。

 安倍さんは高邁な理想を掲げて登板したが、結局その多くは果たせずじまいであった。涙目での会見からは無念さがにじみ出ていた。日本の戦後国家体制の転換を謳ったものの、天運からは早くから見放されていた。本当に可哀想な人だ。その一方、高邁な理想が具体性を欠き、国民に訴求できていなかったり、理想の実現に向けての信念が前首相に比べれば希薄な物であるように感じられた。

 小泉さんの呪縛というのはやはり大きかったに違いない。小泉さんの後というのは誰がやってもやりづらいだろう。自身の理想・信条の実現を第一目標とするなら、いっそ、ポスト小泉の次を虎視眈々と狙うべきだったのかもしれない。真っ正直すぎて、したたかさに欠けていた感が否めないのが残念だ。

 何にしても、今更悔やんでも仕方ない。僕はかねてから小沢一郎には総理になってもらいたくないので、彼が失脚するまでは自民党に頑張ってもらいたい。次の自民党リーダーになる人も大変だろうが、早く後継を決定してほしい。

 安倍さん、ものすごく長く感じた1年だったでしょうが、お疲れ様でした。

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2007年6月14日 (木曜日)

高校教育をどうにかすべきだ

 このところ痛感している学校教育の内容の問題について述べたい。 

 

 最近思う。高校までの教育というのは、学問の基本というよりも、単なる表層でしかないと。これは僕にとって大きな考え方の変化だった。これまでは、高校までの内容が云わば骨にあたり、それをどんどん肉付けさせれば良いものと思っていたが、実は骨だと思っていたものが薄っぺらい皮でしかなかったのだ。 

 

 これまで数限りない知識を頭に叩き込んできたが、それらも実際に役に立つ機会を待たずして消滅していった。これらのほとんどは高校で教わったものだ。しかるに、このように無駄の多い今の高校などは無くしてしまったほうがよっぽど良い。 

 

 高校での教育というのは原則的に大学入試を念頭に置いたものであるから、一定以上の知識の深化だとか、なぜそうなるのかということを自ら考えたり、そもそも教わること自体が正しいのか考慮したりする必要は皆無だ。 

 

 各分野の基本的知識を修めることは確かに必要だ。だが、個々人の興味に応じてもっと弾力的に、専門的に知を満たすことがもっと大事なのではなかろうか。 

 

 例えば、古典や漢文に高校時代の3年間を費やす必要はない。1年で十分だ。やりたい人だけ3年すればいい。外国語が英語だけしかないのもおかしいし、「読み」と「聞き取り」が主軸となって授業が進むのも考え物だ。要は受験を目標にしてあるので、実際のコミュニケーションだとか、異文化理解だとかはそっちのけというのは理解しがたい。地理・歴史・理科にしても、詰め込み式に教わった内容の脳内での劣化は凄まじい勢いで進む。 

 

 こんな教育を続けるよりも、大学の教養科目並みの授業が高校で展開されるほうがよっぽど日本の将来のためになる。より専門的教育も高校で行われるべきだ。個人的経験から言えば、高校レベルの経済学・政治学の授業(公民など)は炭酸の抜けたコーラのようなもので、知的な刺激に欠けるところがある。高校の存在感が増せば、連鎖的に大学教育も充実し、アカデミックの復興もありえるのではないか。だいたい、誰も彼もが大学に進学するという世の中は馬鹿げている。学問の探求とは、そんな生半可なもので済ませられるものではないはずだし、大学はそもそもエリートを養成する場だ。このままでは大学教育は弱体化し、ひいては日本が弱体化する。実際、既にこうなっているのではないか? 

 

 現在の大半の高校は頭の固い馬鹿を大量生産する場でしかない。なぜなら生徒は自分で概念や法則の善悪・正誤を判断する機会が与えられないからだ。 

 

 この間、国民投票法が可決され、投票権のある年齢が18歳以上となったが、正誤・善悪の判断が出来ない人間に投票権を与えるのは危険だとする意見を聞いた。もっともだと思う。高校を卒業したての彼らは表面上の聞こえが良いものが、善であり正だと短絡的に判断してしまうだろう。この規定は国家的策謀かもしれない。 

 

 話が逸れてしまったが、何はともあれ、大学改革の前に高校改革を、と言いたいのである。

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2007年6月 2日 (土曜日)

物質社会の構造的欠陥と人類の破滅

 我々人類はどこへ向かっているのか皆目わからない。

 産業革命、あるいは近代資本主義の勃興以来、我々は欺瞞に満ちた蟻地獄に捕われ、未だに抜け出せずにいる。そして、この事が現代に幾つもの顕著な歪みを生みだし、我々の生存を脅かしている。数十年前に先見の明ある賢人の発した警告も、理解はされたが状況を大きく変える事はなかった。動きだしたうねりに逆らうということは、これほど難しいのだろうか。

 我々は生まれた頃から物質社会の洗礼を受け、この呪縛からは逃れられそうもない。しかし、この物質社会こそが我々を堕落させるばかりか自滅へと追いやる禁断の果実であった。

 物質社会は近代資本主義の賜と言って間違いあるまいが、近代資本主義社会における大量生産・大量消費構造が現代の苦難を招いたのである。

 マクロ経済学の父ケインズは「消費は美徳」と言ったが、これこそがこの社会の問題を指し示すヒントとなる。そう、消費は美徳とされ、豊かさを測る基準として、GDPやGNPがいつのまにか絶対視され(本来は次善策でしかない)、際限なく膨れ上がる消費に応じて人々の労働時間は長くなり、労働効率化が進んで人々から創造的精神を奪い、人口は過剰に集中して都市問題を引き起こし、様々な有限資源を子孫に遺す努力を怠り消耗した挙げ句、温暖化問題でそのしっぺ返しを食らっている。

 これが本当に「豊かな社会」と呼べる代物か。

 資本主義経済自体は悪いシステムではないかもしれないが、運営中に社会が誤った方向へ進みだしても、それを止める手だてが基本的に存在しない。それが市場というシステムだからだ。

 いよいよ現行の資本主義にも内部変革が求められている事がこれから明らかだ。新たな基軸(例えば精神的豊かさを巧く経済に組み込むなど)が導入されるなり、何らかのモデルチェンジが欠かせないと僕は考えている。今までの経済学が現代の問題の根本的解決に貢献していない事を見れば、言い過ぎではない事が理解されよう。

 問題は我々が新たな社会を構築出来るかどうかだが・・・、これは神のみぞ知るところである。だが、実現出来なければ人類は滅亡するしかあるまい。

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2007年5月 7日 (月曜日)

遊園地・アトラクションメーカーは情報公開すべきだ

 本来、遊園地は僕達に楽しみを提供してくれる場所のはずだ。

 しかし大阪のエキスポランドではコースター事故が発生し死者までも出てしまった。現状では遊園地の施設の安全性は来園者にはわからず、ただ我々と遊園地の信頼関係によってのみ保証されている。モラルハザードが叫ばれている今日、もはや遊園地サイドに全幅の信頼を置くことは難しくなっているのかもしれない。

 この事故を受けて、僕は声を大にして言いたい。

 この事故を教訓にして、遊園地やアトラクションメーカーは施設のトラブル歴や整備状況を一般に広く公開すべきではないか、と。ホームページに掲載したり園内に掲示したりして、来園者などのステークホルダーの目に見える形で安全性を示し、この完全情報の下で市場が遊園地・アトラクションを選べるようにすべきではなかろうか。要は完全情報下での市場原理の導入だ。マスコミでよく言われているように、対策としての法整備も重要だろうが、結局のところ企業倫理が重要だ。結局のところ、多くの問題はここに帰結していく。この場合、企業倫理を改善していくためには、こうした方法しか僕には思いつかない。 市場がチェック出来るようにし、遊園地やアトラクションメーカーにもコーポレートガバナンスを働かせる必要があるのではないだろうか。

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2007年3月 7日 (水曜日)

いじめをどうしたらいいのだろう

 先日、NHK「日本の、これから」を観ながらいじめについて考えていた。

 僕自身は特にいじめられた経験もないし、いじめたような記憶もない。また、僕の周りでも極めて深刻ないじめは起きてはいなかった。

 だが、社会全体としてのいじめというものは、巧妙化・陰湿化しているようだ。

 この背景としては、何が挙げられるだろうか。

 僕個人としては、子供達のなかで「異分子」を排除しようとする傾向が強まっていることと、コミュニケーション能力の低下が問題だと考えている。

 日本人は多かれ少なかれ、自分と異質な人間を嫌悪する傾向がある。日本人の島国気質と言おうか、皆自分と共通の人間であるという意識がどこかにあるが、最近の子供や若者はこれが強いのではなかろうか。一度、自分や周りの多数と違う点が露見した時、その人に対して排斥的な態度を示す人間が年々増加している感がある。折りしも個人の嗜好が多様化している昨今、この傾向は非常に皮肉な結果をもたらしている。

 また、この悪循環に拍車をかけているのが低年齢層のコミュニケーション能力の低下である。最近の子供や若者の語彙は明らかに減少している上、他人とのコミュニケーションが苦手な人が増えていると思う。さらに、「キモい」「ウザイ」のように発する言葉がワンフレーズ化していることも特記しておきたい。これらの事象は、いじめる側といじめられる側の双方にあり、それぞれの誘因となりうる。

 ワンフレーズに全てのニュアンスを含めたり、それらの言葉でしか気持ちを表現が出来ない人が増えていることで、意思疎通の面で支障をきたすケースがままある。また、「キモい」「ウザイ」など悪口がワンフレーズ化することで、その言葉が向けられた相手の受けるショックは逆に増す。さらには「死ね」という言葉を何かある度に頻繁に使う人間も増えた。僕はストレスを感じつつも「まあ、いつかね」などと至極当然の事を返していたが、それは相手が本気で言っていないことが分かっていたし、次第に慣れたのでそこまでインパクトはなかった。しかし、免疫がない人が、相手から真面目顔でこのような言葉を言われたら、大変なショックであることは間違いない。こうした暴力的なワンフレーズが氾濫することで、いじめが拡大しているというのも間違いないと思う。

 また、暴力も、暴力的な言葉なしでも、現代ではいじめが可能だ。「無視」というものがある。今ではいじめという存在は、誰でも造作もなく、罪悪感がほとんどない状況で行うことが出来る世の中なのだ。

 

 こうしたいじめを解決しようと、大人達は色々と知恵を絞っているが、僕は起こってしまったいじめを大人の手で解決するのは極めて困難だと思う。

 そもそもいじめというのは「子供達の人間関係がこじれた状態」であって、これに大人達が強権をもって介入しても、子供達のなかで自浄作用が起きない限り、真の意味での解決にはならない。

 いじめへの対処の先頭に立っているのは教師だが、先生の権威が失われ、子供や親との信頼関係が結べていない先生が少なくない昨今、そうした人が指導しても子供達の心へ言葉は届かない。

 こうした現状にあっては、大人のすべきことはいじめの予防ではなかろうか。

 いじめを許さないという土壌を、学校や家庭をはじめとした子供達の生活空間全てでつくりださなくてはならない。また、どこからがいじめかを子供達に認識させなければならない。基本的には、自分がされて嫌な事を他人にすれば全ていじめになると思う。そして、子供が触れるテレビやインターネットなどのメディアも規制されるべきで、バラエティ番組のときに暴力的・言葉いじめ的演出はこのままでは世の中の為にならないと思うし、家庭のパソコンも保護者機能設定を徹底すべきだ。

 いじめが起きてしまった時には、子供がすぐ気軽に通報出来る第三者機関が必要となる。現状では子供が自分の中で問題を抱え込む事が多く、問題の解決にも予防にもつながっていない。いじめられている子供や、目撃した人が、匿名でも連絡出来るようにし、すぐさま現場や警察にフィードバックされ、一応の解決を見届けるまでコミット出来るような仕組みづくりが不可欠だ。また、授業を担当しながらの指導には無理が生じることがあるため、いじめ対処や生活指導のみに専念する要員を全校に配置すべきだ。そうした上で、出席停止措置制度を活用して、いじめた人間といじめられた人間を長期的に引き離すことも多くのケースで行われればよい。また、公立校でも、いじめた側を退学処分にしたり、強制的に転校させたりすることが簡単に出来る社会にすべきだ。個人的には、さらに一歩踏み込んで、刑事罰等の社会的制裁を与えたり、ボランティアに参加させたりという罰則を社会的に大いに検討すべきだと考えている。

 こうしたいじめに対する抑止を社会全体として行うことで、予防につなげていくことが今最も求められているのではないだろうか。

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2007年2月22日 (木曜日)

PROMSを見て感じたこと

 先日、NHK教育テレビの「芸術劇場」でイギリスで行われる世界最大のクラシック音楽祭、PROMS(プロムス)の最終夜のハイライトが放送されていた。(プロムスについてはwikipediaに詳細明記。この日の曲目等についてはNHK芸術劇場公式ページ内の2007年2月18日の音楽の放送内容へ。)

 恥ずかしながらこの音楽祭のことは全く知らなかったのだが、なんと、このイベントは100を超える会場で行われるという破天荒な規模のもの。メイン会場はビートルズの歌詞にも登場するロイヤルアルバートホール。確かにこれを埋めるのは大変だと思えるほど天井も高く、広い広い会場が音楽を楽しもうという幅広い層の観客で一杯になっていた。その他の会場も映る場面があったが、そこもたくさんのエキサイトした観客で埋め尽くされていた。

 なかなか異色のクラシックコンサートだと感じた。オーケストラが演奏しているというのに、観客は立ち上がってリズムに合わせて膝を曲げ伸ばしたり、曲に合わせてラッパを鳴らしたり。このイベントは音楽を楽しもうとする気持ちさえあればいいようだ。指揮者や演奏者もこういう観客を歓迎している様子。なんというか、会場にとても強いグルーヴ感がある、素晴らしい音楽祭だ。

 

 単純に音楽だけでも楽しめたのだが、僕の心に強烈な印象と感動を与えたことがある。それがこの記事の本題だ。

 音楽祭もいよいよクライマックスというところで、やってきました、イギリスを代表する作曲家・エルガーの行進曲「威風堂々」。ちなみにこれは以前紹介したように僕の大好きな一曲。

 実はこの曲には歌詞も付いていて(詳細はwikipediaで)、観客達は演奏に合わせて「希望と栄光の国」の大合唱を始めた。続くイギリスの事実上の国歌"GOD SAVE THE QUEEN(KING)"(歌詞など詳細はやはりwikipediaで)もまた全員で大合唱。この光景が僕を刺戟した。

 「希望と栄光の国」は帝国主義華やかなりし頃に作詞されたようで、国家を称えつつも、その版図拡大を謳う部分が、現代に生きる僕には少なからざる抵抗があった。しかしながら、「希望と栄光の国」、"GOD SAVE THE QUEEN(KING)"は共に国家を称え、国王を称え、自国の安寧と栄光を願う歌詞であり、荘厳で、勇ましく、威厳をもった曲調とも相まって、僕にはいたく感動的であった。

 そこに集った様々な層の人間全員が全く素直な気持ちから「神よ女王(国王)を守りたまへ」とか「君(女王)に勝利を幸を栄光をたまはせ、御世の長からむことを」と歌っているのだ(和訳の出典はwikipediaの前述の「女王陛下万歳」〈GOD SAVE THE QUEEN(KING)〉欄)。僕は感涙してしまった。

 いやはや何ということだろう。こういったことが日本で起こりうるだろうか。確かにサッカー日本代表の試合などでサポーターが「君が代」歌っていることもある。学校行事などで歌うこともある。けれど、心から自然と湧き出るように「君が代」を歌う人がいるだろうか。その歌詞の意味を正しく理解している日本人はどれほどいようか。

 日本の皇室は現イギリス王室よりも圧倒的に長い歴史を持つにも拘らず、共にその存在は国家のシンボルであり国民統合のシンボルであるにも拘らず、日本とイギリスとの間にこれほどの違いがあって良いのだろうか。僕は悲しくてならない。最近では、天皇不要論を唱える若者や(昔からいたのだろうけれども)、天皇や皇室に最低限の敬意を払うことの出来ない人、ましてや意図的にこれを侮蔑する知識人もいる。僕は大して右派的人間ではないことをここで断っておくけれど、国家として日本を見たとき、その芯となるべきである国民の統一感が薄れてきているのは紛れもない事実ではないだろうか。

 全体主義に陥った戦前あるいは戦中の一時期の教育は恐るべき愚挙であったけれど、国民の思想教育は国家としてきわめて重要だと思う。アメリカなどは、自虐史観などほとんど見られない歴史教育、建国の偉人たちの偉業の数々、星条旗への愛着などの教育が義務教育課程で徹底的に行われていると聞く。これは北朝鮮での話ではない。かのアメリカでの話だ。思想教育というのは国家の統合には必要なことだ。「人種のるつぼ」などと評されるアメリカでは全く当然のごとくこれが不可欠で、国を思う心が国民一人一人にないとあの国は空中分解するのは目に見えている。日本も戦前・戦中の反動で思想教育やそれに準ずることが行われなくなっているが、いいかげん見直すべきである。現在、この国の将来のエリート層で、憂国の志を持つ士はもはや圧倒的に少数である。いわんや、将来の準知識階級ともいえる層も同じくである。さらに、実は歴史的に見ても国家の危急存亡のときの救国の士が準エリート、準々エリートから出ているという事実が、今の日本の実態を実に悲観視させてしまう。その意味では、愛国心をめぐる先の教育改革の方向性は全く間違っていなかった。国民に愛国心のない国に、どうして栄光があろうか。問題は技術的な側面のみだ。

 先日の私的な理想の教育プランに関する記事では、「国民をつくる」作業はもう終えていると書いたが、このコンサートを見た今、精神教育は常に必要であることを痛感している。道州制の議論の中で、教育まで全て地方に丸投げしてしまおうとする動きもあるが、これは大間違いだと思う。やはり、歴史など、国民精神教育は国家が責任をもって監督すべきで、そうでなければ、日本の行く末は暗いものになるかもしれない。

 

 「君が代」も悪くないが、もっと勇ましく歌えるような準国歌のような愛唱歌が生まれないものだろうか。他国のコンサートを見ての感動を、自国で我が身をもって感じてみたいものだ。 

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2007年2月 5日 (月曜日)

教育について考えてみた

 このブログでも教育に関する話題を結構多く取り上げていますが、僕が暫定的に考えている教育制度の理想プランを述べてみたいと思います。

  もはや日本の教育は、文部科学省による護送船団方式では失墜するばかりだと僕は思っています。現場を知らない文科省がいろいろ机上の空論を並べても、その政策が全国に浸透するのには時間が掛かりますし、浸透したところで政策そのものが誤りであれば大変な損害を未来の日本に押し付けてしまうことになりかねません。昨今のゆとり教育の問題化にしても、旧文部省が理念だけ現場に押し付けて、後の責任を丸投げしたことにそもそもの原因があるのです。結果、学校や家庭は適切な手段を講じることを怠ったり遅れたりで、子供たちにただ単に暇な時間を与えるだけのものになってしまいました。空いた時間は塾の時間になって、家庭の教育出費は増すばかりでなく、日本の教育の塾・予備校への依存度は増し、学校教育の空洞化に拍車が掛かりました。また、暇な時間に子供がすることといえば、ゲームに興じることが多く、地域との交流があるわけがありません。

 理念はご立派ですが、無策の愚挙だったと断じざるを得ません。

 国家が行う教育には、「国民をつくる」という大目標があります。それは、母国語を覚えさせたり、共通の価値観を植えつけたりということによって、国としての体をなさせることが必要だからです。明治以来、日本は中央集権的な教育によって均質的な「国民」をつくり出し、その力を結集させることによって西洋列強に肩を並べたばかりか、世界第二位の経済力を持つ国まで上り詰めました。

 もう、均質的な「国民」をつくるという目標は十分に達成されています。そして、21世紀になり、この高度情報化・ボーダレス化の時代の中では、多様性のあるオリジナリティーが求められるようになっています。もはやただ均質的に国民をつくるだけでは日本は国家として生き残ってはいけなくなっています。日本が今世界を席巻している分野を見ればお分かり頂けるでしょう。先端技術やアニメや日本食など、その独自性を世界は評価しています。

 加えて、日本は地域がその活力を取り戻さない限り、日本全体としての活力は生み出せないと僕は感じています。

 これからの日本のテーマは「総力戦」なのです。

 よって、僕は教育に関する権限・財源を地方自治体に大幅に移譲すべきであると考えます。文科省の役割は、教科書検定くらいで十分のように思います。ただし、文科省が口出しできるのは内容に学術的誤りがあったり、歴史観に不都合があったときだけに限定し、教科書のレベルに関しては口を出せないこととします。これは歴史認識等はやはり国家として統一しておくべきでしょうし、以下の論考で示されるように教科書のレベルは幅広いものでなければならないからです。

 6・3・3・4制がいいかどうかは別として、教育期間の制度は当然全国一律です。しかし、教える範囲やカリキュラム、登校日は地方ごとに異なって全く構わないと僕は思います。文科省は義務教育と高校に区切って「義務教育では最低限これだけ、高校では最低限これだけ教えなさい」という目安を示し、あとは各地域の判断で何をどれだけプラスアルファで教えるか、または教えずにほかの学習や総合的学習に向けるかを決定します。高校・大学入試は最低限度範囲からの出題にすれば、他地域への進学でもほとんど不利になることはないでしょう。

 また、地域の小学校・中学校・高校・大学の枠を超えたネットワークづくりもこの先重要です。こうした相互関係を深めていくことによって、教育に一貫性が現れます。また、これらの交流がなされることによって、様々な情報が共有されることで、地域での教育に一体感が生まれ、既存の枠を超えた様々な取り組みに弾みがつくでしょう。

 教育機関同士のネットワークだけでなく、地域企業や地域社会と学校とのコラボレーションも地域力の醸成には欠かせません。

 地域が生き残っていくために必要な人材は、やはり地域が生み出さなくてはなりません。また、地域全体が教育に関わることで、地域に連帯感が生まれ、最近問題となっているいじめや親の問題も少しは解消するのではなかろうかと思います。

 地域に根ざし、いたるところにネットワークを張り巡らすことによって、地域総がかりで教育に取り組み、その結果として地域に活力が還元される。これこそが日本の21世紀の教育に必要な考え方ではないでしょうか。

 そして、各地域で独自教育を施すことによって、地域に差異が生まれます。これを格差と思っては元も子もありません。これは「個性」です。もしこれが地域にとって好ましからざるものならば、他の地域を参考にしつつ調整すればよいのです。こうして、悪い取り組みは改善され、よい取り組みだけが残ることになれば、結果としての日本の人材に多様性が生まれ、国力は増強すると僕は信じています。これはいわば、国家を挙げた壮大な実験なのです。

 

 しかし、これを実行するには少なくとも5~10年の準備期間が必要でしょう。

 まずは、地域の教育委員会を大幅に増員するとともに、実行力のある実務部隊に編成しなおす必要があります。また、教育委員会と現場や地域との風通しをよくする策が必要です。ミニ文科省が乱立したのでは意味がありませんから。小回りの利くスピード感のある組織が必要です。

 具体的に教育プランを練る必要もありますし、学校ごとのシラバスを仕込まなければなりません。地域間の根回しや関係構築も必要です。 

 また、地域住民はこれらの動向に積極的にコミットしなければ、真の成功はありえません。

 何かと混乱が生じそうなプランではありますが、教育に風穴を開けてくれるのは確かです。皆さんはどう思われましたか。

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2006年12月21日 (木曜日)

マスコミについて

 こちらの記事に関してRig様から以下のコメントが寄せられました。

おひさしぶりです。先日は詳細なコメントを頂きとても嬉しかったです。

 今回の問題について私は全く無知なので多くは言えませんが、一点申し上げたいと思ったことが有りました。それは「重要法案の国民への公表」のやり方についてです。
 現代の日本では、マスコミが世論を形成するのに重要な役割を果たしていると言われます。今回の安倍総理の「伏兵」作戦とも言われかねないやり方では自民党の公表のやり方も問われるべきですが、私はむしろ世論形成の一端を担うマスコミこそ責任を問われるべきだと思います。情報の取捨選択や、積極的情報入手などが必要とされる時代ではありますが、マスコミにはそれを積極的に国民に知らせていこうという姿勢が必要なように思えます。自民党に食い下がればこのことを隠してはおけなかったことでしょうし、これを情報社会の先端にいた人々は知っていただろうと思います。もしかすると、そのような人々が何らかの利害で敢えて広く伝えようとしなかったのでは、と邪推してしまいます。私は自民党にもマスコミ、というよりも日本のジャーナリズムに少し不信感を抱いています。

 

 僕は早速コメントの返事を書いたのですが、思いのほか長い文章になってしまったので、ここに記事として掲載します。後から読み返してみると、勢いに任せて書いたためかRig様のコメントの趣旨とはかなりずれてしまったかもしれませんが、そこは御容赦願います。

 

 久しぶりのコメントありがとうございます。最近なかなかコメントをお寄せ下さる方がいらっしゃらないので寂しかったところです。
 
 マスコミのことに興味がおありでしたら、お暇なときにそういったことに関する書籍を読んでみてはいかがでしょう。僕が先日ブログ内でご紹介した「メディア危機」でもいいかもしれません。

 テレビに限っていえば、テレビ局は視聴率が取れるような内容・レベルで報道しますから、報道がとても感情的なものであったり、情報が偏ったりすることは常に有り得る事です。現に国民受けが良かったり、当たり障りがないものの報道が横行しています。しかしそれは我々国民に合わせて作られているわけですから、結局のところテレビ報道がおかしくなるのも国民の責任によるところが大きいのではないでしょうか(何か陰で圧力が加えられているときは勿論別ですよ)。どこのテレビ局も同じような内容を同じような切り口で報道しているのを見ればそれもお分かりになると思います。余談ですが、アメリカのテレビ界はケーブル放送なので、数多くのテレビ局が乱立し争っていて、ある層をピンポイントに狙った独自性のある報道が比較的しやすいというのをどこかで読んだ記憶があります。まあ、あの国の報道も問題が色々あると思いますが。この間のイラク戦争がいい例です。

 それから、テレビは新聞とは違って、視覚・聴覚に対し大量の情報を一方的に送りつけてくるため、見る人に情報に関して熟慮する暇をあたえず、そのまま鵜呑みにさせてしまうことも大きな問題でしょう。そういう意味では新聞の方が情報を消費する側にとっては比較的安全といえると思います。自分のペースで読めますから。しかし、最近では若者の新聞離れが進んでいます(今週授業でやりました)。ですから、いわば準知識階級の卵みたいな人たちや、低知識層の主たる情報源はテレビやインターネットということになります。インターネットも、新聞に比べて情報を探すことがおっくうであるため、実際に知る情報は限られてきますよね。自分の興味のある範囲だけ少し見てみるだけとか。だからインターネットも一概に良いとは言えません。その上、最近ではニュースを見ない人すら増えているといいます。(そういえば、僕が高3の頃、同じ文系アッパークラスに「派閥」を知らない人がいて、開いた口がふさがらないほど驚愕したことを思い出します。)

 基礎知識が欠けている人が増えたとき、でたらめな論理を報道することで世論を誘導することはいとも簡単でありましょう。マスコミが危機というよりも、国民サイドが危機的水準に達しつつあるのかもしれません。

 そういえば、先週の放送大学で、欧米では教育現場で積極的にメディア・リテラシーを教えているというのをやっていました。調査結果によると、日本の子供達はテレビ世界と現実をごっちゃにしているそうです(バラエティーに出てくるキャラクターが現実に実在するなどなど)。これは日本人がテレビ創成期からテレビをポジティブに受け入れてきたからだそうです。「テレビを疑わない」これが日本人の幼い頃からの姿勢になっているのです。これに対して、これからの教育で必要となってくるのは「まずは疑ってかかれ」という姿勢のメディア・リテラシー教育です。まだまだ教材やカリキュラムなどができていないそうで、研究途上なのですが、テレビ以外のメディアに接するときでも必ず必要なスキルであることは間違いありません。 

 とにかく、マスコミが変わるためには国民が変わる必要があるというのが今のところの僕の見解です。クオリティーの高い報道を求める声が大多数ならば、その声に応えて何らかの形で実現してくれる団体・企業も出てくることでしょう。最近の動きを例にとれば、「オー・マイ・ニュース」の取り組みが挙げられると思います。僕は見ていませんが。でもそういった試みは歓迎しています。もっともっとマス・メディアが真剣に取り組んでくれるように我々もレベルアップしていきましょう。

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2006年11月28日 (火曜日)

郵政造反組復党は許せるか

 「国民に聞いてみたい。」 そう言って小泉純一郎前総理が衆議院を解散させ、結果自民党が大勝したのも、たった1年前の話であります。

 郵政民営化法案に反対した自民党議員は除名処分を受け、それでもなお、無所属立候補し民営化に反対して当選した議員は12名いましたが、この程、平沼議員を除く11名は復党確実となったようです。

 自民党は「復党願」とともに「誓約書」も提出させることで、一定程度のけじめをつけたつもりです。

 果たして、これは許されることでしょうか。安倍晋三総理総裁の勇み足ではないでしょうか。

 そもそも、先の衆議院議員選挙で当選したいわゆる「造反組」議員たちは、立候補時点では「無所属」で「郵政民営化法案反対」の立場だったはずです。選挙民もそんな彼らに一票を投じたわけであって、それを今更、政治資金が枯渇寸前という理由で、そうした立場をあっさりと捨て去って自民党に復党するというのは、有権者への冒涜ではないでしょうか。それ以前に、当選後の衆議院で郵政民営化に賛成票を投じている時点で冒涜ですが。こうした事が罷り通る国で、本当に政策本位の政治が実現するのか甚だ疑問に感じます。この様子だと、そんな国になれるのはまだまだ先のことのようです。

 大体、無所属になれば政治資金が足りなくなるというのは、立候補する前に既にわかっていたことのはずです。それにも拘らず立候補するとは、あらかじめこうなる事を予期していたことが透けて見えます。政治資金面に問題があるなら、はじめから選挙に出なければよかったのです。愚かしくも立候補して当選した後に古巣に泣きを入れるとは情けないことこの上ありません。

 「造反」議員個人の身勝手な振る舞いによって、有権者との契約は破綻しています。彼らに投票した有権者は、彼ら個人への支持ももちろんあるでしょうが、自民党政治に疑問をもっていたり、郵政民営化に反対だったから彼らに票を与えたのです。今回の件はこうした声を無視するものであります。

 現段階では、統一会派に合流する程度で留めるべきです。郵政民営化以外の政策は、本来自民党と同じ方向なのだろうし、有能な人物というのが埋もれたままなのもったいない話ではあります。しかし、少なくとも、有権者との契約更新となる次の衆議院議員選挙までは、復党すべきではありません。

 しかし、「誓約書」を書かせた中川秀直自民党幹事長に対して、自民党内から厳しすぎるという声もあるようですが、僕はこうした声をあげて復党を歓迎する人達の感覚が容易に理解できません。除名処分というのも、自民党の党紀委員会で厳正に決定されたもののはずです。それを約1年で党紀委員会自身が自らの決定を覆すとは、自民党の党紀というのはそれほどお粗末なものでしょうか。国民から手痛いしっぺ返しを受けても後の祭りです。

 国民サイドも、こうした動きがおかしいと感じるなら、真っ向から反対して見せるべきです。そうでないと、いつまで経っても国民本位の政治が実現することはないでしょう。有権者は政治家達に見くびられていることに気づかなければなりません。これは我々が我々国民による国を手にするための闘いの一部なのです。

 皆さんはどのようにお感じになっていますか?

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2006年11月 2日 (木曜日)

教育基本法改正問題についての小考

 当ブログの10月27日付けの記事に対するRig様の久々のコメントに対して、返答のコメントを書いたところ、かなり長いものになってしまいましたので、ここで独立した記事として掲載します。

 Rig様の仰るとおり、なぜこの時期に未履修問題が発覚したのかは考えてみる必要があるかもしれません。安部政権をアシストするという意図も感じられないわけではありません。しかし、今の段階では何とも言いようがありません。そのため、報道するマスコミに問うてみるしかないとコメントしたわけです。
 
 憲法とは、国を縛る約束です。国家権力の暴走を食い止めるためのものですね。教育基本法も、公的教育の原則を定めるものですから、あなたの仰るように憲法に近い性質を持つともいえるでしょう。

 あなたは今これが愛国心を重視した物に改正される動きがあることに関して、軍国主義の再来の予兆だと思われているようですが、それは少しオーバーなのではないでしょうか。仮に再来したとしても、かつてのようにひどくはないと思いますが。 

 なぜかというと、現在日本という国は「軍」を持っていませんし、自衛隊は文民統制の制度が確立しています。それに第2次世界大戦後、国民は戦争アレルギーを抱えています。教育基本法が改正されたからといって、軍国主義に傾いていくというのは少し論理の飛躍があるような気がします。僕としては、教育基本法よりも、日本の脆弱なマスコミの方が心配です。今の日本のジャーナリズムは非常にまずいと思いませんか。

 さらにいえば、今の日本人にはどこか「個人主義」がはびこっていて、全体への奉仕の心が薄れつつような気がします。もっとも、この「個人主義」とは、欧米の個人主義とは違うものであると思いますが。欧米の個人主義はその根底に相手へのリスペクトがあり、その上に個人の自由が成立しています。日本の「個人主義」は、「自分さえよければあとはどうでもいい」主義。こんな状況下にいることを感じているのは僕だけでしょうか。これを変えていくため、過激にならない範囲で国や地域への愛を持たせるのはそんなに悪いことではないと思えます。まあ、愛というのは押し付けられるものではありませんから、「日本人の一員として、自分が愛せる国や郷土を自らの手でつくり、育んでいく責任と気概を持て」ぐらいの意味合いであればいいのではないでしょうか。

 そもそも、公的教育とは「国民」をつくるためにもあるのです。同じ言葉や価値観や考え方、日本人とは何かを学ぶことで、国民全体に一体感を持たせる役割があります。たとえ、顔かたちがほとんど同じ2人の人間がいたとしても、前述の要素が全く違えば、お互いを分かり合うことは難しく、お互いを「同じ範疇の人間だ」とは思えないでしょう。このような性質を持つ教育だからこそ、国民性を変える力も持っているといえます。この力を正しく活用することで、日本がもっとよい国になれるでしょう。
 
 こうした意味で、教育基本法は非常にデリケートな法律です。僕は今の改正の方向性は間違ってはいないと思いますが、現行の基本法には道徳に関する記述がないため、今回の改正で新たに「愛国心」の記述をすることに強い反発の声もあります。法律の性質自体が変わってしまうのは、僕も少しそれでいいのかなと思いはしますが、慎重に議論を重ねた上で力を正しく使えるような形で決着できれば、それでいいと考えます。

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