2007年9月12日 (水曜日)

安倍総理辞意表明

 皆様お久しぶりでございます。夏休み・・・長崎で骨休めをしている間、ブログの更新がすっかり滞ってしまい申し訳ありません。では早速記事を書いて参りましょう。

 安倍総理が今日いきなりの辞意表明を行った。今後数日の内に新しい自民党総裁が決定し、総理交代の運びとなろう。

 国会が始まったばかりのこの時点での辞意表明は衝撃的で納得のいくものではないが、もはやあの力を感じられない安倍総理が続けていくよりは交代してもらった方が国民のためかもしれない。

 安倍さんは高邁な理想を掲げて登板したが、結局その多くは果たせずじまいであった。涙目での会見からは無念さがにじみ出ていた。日本の戦後国家体制の転換を謳ったものの、天運からは早くから見放されていた。本当に可哀想な人だ。その一方、高邁な理想が具体性を欠き、国民に訴求できていなかったり、理想の実現に向けての信念が前首相に比べれば希薄な物であるように感じられた。

 小泉さんの呪縛というのはやはり大きかったに違いない。小泉さんの後というのは誰がやってもやりづらいだろう。自身の理想・信条の実現を第一目標とするなら、いっそ、ポスト小泉の次を虎視眈々と狙うべきだったのかもしれない。真っ正直すぎて、したたかさに欠けていた感が否めないのが残念だ。

 何にしても、今更悔やんでも仕方ない。僕はかねてから小沢一郎には総理になってもらいたくないので、彼が失脚するまでは自民党に頑張ってもらいたい。次の自民党リーダーになる人も大変だろうが、早く後継を決定してほしい。

 安倍さん、ものすごく長く感じた1年だったでしょうが、お疲れ様でした。

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2007年6月14日 (木曜日)

高校教育をどうにかすべきだ

 このところ痛感している学校教育の内容の問題について述べたい。 

 

 最近思う。高校までの教育というのは、学問の基本というよりも、単なる表層でしかないと。これは僕にとって大きな考え方の変化だった。これまでは、高校までの内容が云わば骨にあたり、それをどんどん肉付けさせれば良いものと思っていたが、実は骨だと思っていたものが薄っぺらい皮でしかなかったのだ。 

 

 これまで数限りない知識を頭に叩き込んできたが、それらも実際に役に立つ機会を待たずして消滅していった。これらのほとんどは高校で教わったものだ。しかるに、このように無駄の多い今の高校などは無くしてしまったほうがよっぽど良い。 

 

 高校での教育というのは原則的に大学入試を念頭に置いたものであるから、一定以上の知識の深化だとか、なぜそうなるのかということを自ら考えたり、そもそも教わること自体が正しいのか考慮したりする必要は皆無だ。 

 

 各分野の基本的知識を修めることは確かに必要だ。だが、個々人の興味に応じてもっと弾力的に、専門的に知を満たすことがもっと大事なのではなかろうか。 

 

 例えば、古典や漢文に高校時代の3年間を費やす必要はない。1年で十分だ。やりたい人だけ3年すればいい。外国語が英語だけしかないのもおかしいし、「読み」と「聞き取り」が主軸となって授業が進むのも考え物だ。要は受験を目標にしてあるので、実際のコミュニケーションだとか、異文化理解だとかはそっちのけというのは理解しがたい。地理・歴史・理科にしても、詰め込み式に教わった内容の脳内での劣化は凄まじい勢いで進む。 

 

 こんな教育を続けるよりも、大学の教養科目並みの授業が高校で展開されるほうがよっぽど日本の将来のためになる。より専門的教育も高校で行われるべきだ。個人的経験から言えば、高校レベルの経済学・政治学の授業(公民など)は炭酸の抜けたコーラのようなもので、知的な刺激に欠けるところがある。高校の存在感が増せば、連鎖的に大学教育も充実し、アカデミックの復興もありえるのではないか。だいたい、誰も彼もが大学に進学するという世の中は馬鹿げている。学問の探求とは、そんな生半可なもので済ませられるものではないはずだし、大学はそもそもエリートを養成する場だ。このままでは大学教育は弱体化し、ひいては日本が弱体化する。実際、既にこうなっているのではないか? 

 

 現在の大半の高校は頭の固い馬鹿を大量生産する場でしかない。なぜなら生徒は自分で概念や法則の善悪・正誤を判断する機会が与えられないからだ。 

 

 この間、国民投票法が可決され、投票権のある年齢が18歳以上となったが、正誤・善悪の判断が出来ない人間に投票権を与えるのは危険だとする意見を聞いた。もっともだと思う。高校を卒業したての彼らは表面上の聞こえが良いものが、善であり正だと短絡的に判断してしまうだろう。この規定は国家的策謀かもしれない。 

 

 話が逸れてしまったが、何はともあれ、大学改革の前に高校改革を、と言いたいのである。

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2007年6月 2日 (土曜日)

物質社会の構造的欠陥と人類の破滅

 我々人類はどこへ向かっているのか皆目わからない。

 産業革命、あるいは近代資本主義の勃興以来、我々は欺瞞に満ちた蟻地獄に捕われ、未だに抜け出せずにいる。そして、この事が現代に幾つもの顕著な歪みを生みだし、我々の生存を脅かしている。数十年前に先見の明ある賢人の発した警告も、理解はされたが状況を大きく変える事はなかった。動きだしたうねりに逆らうということは、これほど難しいのだろうか。

 我々は生まれた頃から物質社会の洗礼を受け、この呪縛からは逃れられそうもない。しかし、この物質社会こそが我々を堕落させるばかりか自滅へと追いやる禁断の果実であった。

 物質社会は近代資本主義の賜と言って間違いあるまいが、近代資本主義社会における大量生産・大量消費構造が現代の苦難を招いたのである。

 マクロ経済学の父ケインズは「消費は美徳」と言ったが、これこそがこの社会の問題を指し示すヒントとなる。そう、消費は美徳とされ、豊かさを測る基準として、GDPやGNPがいつのまにか絶対視され(本来は次善策でしかない)、際限なく膨れ上がる消費に応じて人々の労働時間は長くなり、労働効率化が進んで人々から創造的精神を奪い、人口は過剰に集中して都市問題を引き起こし、様々な有限資源を子孫に遺す努力を怠り消耗した挙げ句、温暖化問題でそのしっぺ返しを食らっている。

 これが本当に「豊かな社会」と呼べる代物か。

 資本主義経済自体は悪いシステムではないかもしれないが、運営中に社会が誤った方向へ進みだしても、それを止める手だてが基本的に存在しない。それが市場というシステムだからだ。

 いよいよ現行の資本主義にも内部変革が求められている事がこれから明らかだ。新たな基軸(例えば精神的豊かさを巧く経済に組み込むなど)が導入されるなり、何らかのモデルチェンジが欠かせないと僕は考えている。今までの経済学が現代の問題の根本的解決に貢献していない事を見れば、言い過ぎではない事が理解されよう。

 問題は我々が新たな社会を構築出来るかどうかだが・・・、これは神のみぞ知るところである。だが、実現出来なければ人類は滅亡するしかあるまい。

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2007年5月 7日 (月曜日)

遊園地・アトラクションメーカーは情報公開すべきだ

 本来、遊園地は僕達に楽しみを提供してくれる場所のはずだ。

 しかし大阪のエキスポランドではコースター事故が発生し死者までも出てしまった。現状では遊園地の施設の安全性は来園者にはわからず、ただ我々と遊園地の信頼関係によってのみ保証されている。モラルハザードが叫ばれている今日、もはや遊園地サイドに全幅の信頼を置くことは難しくなっているのかもしれない。

 この事故を受けて、僕は声を大にして言いたい。

 この事故を教訓にして、遊園地やアトラクションメーカーは施設のトラブル歴や整備状況を一般に広く公開すべきではないか、と。ホームページに掲載したり園内に掲示したりして、来園者などのステークホルダーの目に見える形で安全性を示し、この完全情報の下で市場が遊園地・アトラクションを選べるようにすべきではなかろうか。要は完全情報下での市場原理の導入だ。マスコミでよく言われているように、対策としての法整備も重要だろうが、結局のところ企業倫理が重要だ。結局のところ、多くの問題はここに帰結していく。この場合、企業倫理を改善していくためには、こうした方法しか僕には思いつかない。 市場がチェック出来るようにし、遊園地やアトラクションメーカーにもコーポレートガバナンスを働かせる必要があるのではないだろうか。

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2007年3月 7日 (水曜日)

いじめをどうしたらいいのだろう

 先日、NHK「日本の、これから」を観ながらいじめについて考えていた。

 僕自身は特にいじめられた経験もないし、いじめたような記憶もない。また、僕の周りでも極めて深刻ないじめは起きてはいなかった。

 だが、社会全体としてのいじめというものは、巧妙化・陰湿化しているようだ。

 この背景としては、何が挙げられるだろうか。

 僕個人としては、子供達のなかで「異分子」を排除しようとする傾向が強まっていることと、コミュニケーション能力の低下が問題だと考えている。

 日本人は多かれ少なかれ、自分と異質な人間を嫌悪する傾向がある。日本人の島国気質と言おうか、皆自分と共通の人間であるという意識がどこかにあるが、最近の子供や若者はこれが強いのではなかろうか。一度、自分や周りの多数と違う点が露見した時、その人に対して排斥的な態度を示す人間が年々増加している感がある。折りしも個人の嗜好が多様化している昨今、この傾向は非常に皮肉な結果をもたらしている。

 また、この悪循環に拍車をかけているのが低年齢層のコミュニケーション能力の低下である。最近の子供や若者の語彙は明らかに減少している上、他人とのコミュニケーションが苦手な人が増えていると思う。さらに、「キモい」「ウザイ」のように発する言葉がワンフレーズ化していることも特記しておきたい。これらの事象は、いじめる側といじめられる側の双方にあり、それぞれの誘因となりうる。

 ワンフレーズに全てのニュアンスを含めたり、それらの言葉でしか気持ちを表現が出来ない人が増えていることで、意思疎通の面で支障をきたすケースがままある。また、「キモい」「ウザイ」など悪口がワンフレーズ化することで、その言葉が向けられた相手の受けるショックは逆に増す。さらには「死ね」という言葉を何かある度に頻繁に使う人間も増えた。僕はストレスを感じつつも「まあ、いつかね」などと至極当然の事を返していたが、それは相手が本気で言っていないことが分かっていたし、次第に慣れたのでそこまでインパクトはなかった。しかし、免疫がない人が、相手から真面目顔でこのような言葉を言われたら、大変なショックであることは間違いない。こうした暴力的なワンフレーズが氾濫することで、いじめが拡大しているというのも間違いないと思う。

 また、暴力も、暴力的な言葉なしでも、現代ではいじめが可能だ。「無視」というものがある。今ではいじめという存在は、誰でも造作もなく、罪悪感がほとんどない状況で行うことが出来る世の中なのだ。

 

 こうしたいじめを解決しようと、大人達は色々と知恵を絞っているが、僕は起こってしまったいじめを大人の手で解決するのは極めて困難だと思う。

 そもそもいじめというのは「子供達の人間関係がこじれた状態」であって、これに大人達が強権をもって介入しても、子供達のなかで自浄作用が起きない限り、真の意味での解決にはならない。

 いじめへの対処の先頭に立っているのは教師だが、先生の権威が失われ、子供や親との信頼関係が結べていない先生が少なくない昨今、そうした人が指導しても子供達の心へ言葉は届かない。

 こうした現状にあっては、大人のすべきことはいじめの予防ではなかろうか。

 いじめを許さないという土壌を、学校や家庭をはじめとした子供達の生活空間全てでつくりださなくてはならない。また、どこからがいじめかを子供達に認識させなければならない。基本的には、自分がされて嫌な事を他人にすれば全ていじめになると思う。そして、子供が触れるテレビやインターネットなどのメディアも規制されるべきで、バラエティ番組のときに暴力的・言葉いじめ的演出はこのままでは世の中の為にならないと思うし、家庭のパソコンも保護者機能設定を徹底すべきだ。

 いじめが起きてしまった時には、子供がすぐ気軽に通報出来る第三者機関が必要となる。現状では子供が自分の中で問題を抱え込む事が多く、問題の解決にも予防にもつながっていない。いじめられている子供や、目撃した人が、匿名でも連絡出来るようにし、すぐさま現場や警察にフィードバックされ、一応の解決を見届けるまでコミット出来るような仕組みづくりが不可欠だ。また、授業を担当しながらの指導には無理が生じることがあるため、いじめ対処や生活指導のみに専念する要員を全校に配置すべきだ。そうした上で、出席停止措置制度を活用して、いじめた人間といじめられた人間を長期的に引き離すことも多くのケースで行われればよい。また、公立校でも、いじめた側を退学処分にしたり、強制的に転校させたりすることが簡単に出来る社会にすべきだ。個人的には、さらに一歩踏み込んで、刑事罰等の社会的制裁を与えたり、ボランティアに参加させたりという罰則を社会的に大いに検討すべきだと考えている。

 こうしたいじめに対する抑止を社会全体として行うことで、予防につなげていくことが今最も求められているのではないだろうか。

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2007年2月22日 (木曜日)

PROMSを見て感じたこと

 先日、NHK教育テレビの「芸術劇場」でイギリスで行われる世界最大のクラシック音楽祭、PROMS(プロムス)の最終夜のハイライトが放送されていた。(プロムスについてはwikipediaに詳細明記。この日の曲目等についてはNHK芸術劇場公式ページ内の2007年2月18日の音楽の放送内容へ。)

 恥ずかしながらこの音楽祭のことは全く知らなかったのだが、なんと、このイベントは100を超える会場で行われるという破天荒な規模のもの。メイン会場はビートルズの歌詞にも登場するロイヤルアルバートホール。確かにこれを埋めるのは大変だと思えるほど天井も高く、広い広い会場が音楽を楽しもうという幅広い層の観客で一杯になっていた。その他の会場も映る場面があったが、そこもたくさんのエキサイトした観客で埋め尽くされていた。

 なかなか異色のクラシックコンサートだと感じた。オーケストラが演奏しているというのに、観客は立ち上がってリズムに合わせて膝を曲げ伸ばしたり、曲に合わせてラッパを鳴らしたり。このイベントは音楽を楽しもうとする気持ちさえあればいいようだ。指揮者や演奏者もこういう観客を歓迎している様子。なんというか、会場にとても強いグルーヴ感がある、素晴らしい音楽祭だ。

 

 単純に音楽だけでも楽しめたのだが、僕の心に強烈な印象と感動を与えたことがある。それがこの記事の本題だ。

 音楽祭もいよいよクライマックスというところで、やってきました、イギリスを代表する作曲家・エルガーの行進曲「威風堂々」。ちなみにこれは以前紹介したように僕の大好きな一曲。

 実はこの曲には歌詞も付いていて(詳細はwikipediaで)、観客達は演奏に合わせて「希望と栄光の国」の大合唱を始めた。続くイギリスの事実上の国歌"GOD SAVE THE QUEEN(KING)"(歌詞など詳細はやはりwikipediaで)もまた全員で大合唱。この光景が僕を刺戟した。

 「希望と栄光の国」は帝国主義華やかなりし頃に作詞されたようで、国家を称えつつも、その版図拡大を謳う部分が、現代に生きる僕には少なからざる抵抗があった。しかしながら、「希望と栄光の国」、"GOD SAVE THE QUEEN(KING)"は共に国家を称え、国王を称え、自国の安寧と栄光を願う歌詞であり、荘厳で、勇ましく、威厳をもった曲調とも相まって、僕にはいたく感動的であった。

 そこに集った様々な層の人間全員が全く素直な気持ちから「神よ女王(国王)を守りたまへ」とか「君(女王)に勝利を幸を栄光をたまはせ、御世の長からむことを」と歌っているのだ(和訳の出典はwikipediaの前述の「女王陛下万歳」〈GOD SAVE THE QUEEN(KING)〉欄)。僕は感涙してしまった。

 いやはや何ということだろう。こういったことが日本で起こりうるだろうか。確かにサッカー日本代表の試合などでサポーターが「君が代」歌っていることもある。学校行事などで歌うこともある。けれど、心から自然と湧き出るように「君が代」を歌う人がいるだろうか。その歌詞の意味を正しく理解している日本人はどれほどいようか。

 日本の皇室は現イギリス王室よりも圧倒的に長い歴史を持つにも拘らず、共にその存在は国家のシンボルであり国民統合のシンボルであるにも拘らず、日本とイギリスとの間にこれほどの違いがあって良いのだろうか。僕は悲しくてならない。最近では、天皇不要論を唱える若者や(昔からいたのだろうけれども)、天皇や皇室に最低限の敬意を払うことの出来ない人、ましてや意図的にこれを侮蔑する知識人もいる。僕は大して右派的人間ではないことをここで断っておくけれど、国家として日本を見たとき、その芯となるべきである国民の統一感が薄れてきているのは紛れもない事実ではないだろうか。

 全体主義に陥った戦前あるいは戦中の一時期の教育は恐るべき愚挙であったけれど、国民の思想教育は国家としてきわめて重要だと思う。アメリカなどは、自虐史観などほとんど見られない歴史教育、建国の偉人たちの偉業の数々、星条旗への愛着などの教育が義務教育課程で徹底的に行われていると聞く。これは北朝鮮での話ではない。かのアメリカでの話だ。思想教育というのは国家の統合には必要なことだ。「人種のるつぼ」などと評されるアメリカでは全く当然のごとくこれが不可欠で、国を思う心が国民一人一人にないとあの国は空中分解するのは目に見えている。日本も戦前・戦中の反動で思想教育やそれに準ずることが行われなくなっているが、いいかげん見直すべきである。現在、この国の将来のエリート層で、憂国の志を持つ士はもはや圧倒的に少数である。いわんや、将来の準知識階級ともいえる層も同じくである。さらに、実は歴史的に見ても国家の危急存亡のときの救国の士が準エリート、準々エリートから出ているという事実が、今の日本の実態を実に悲観視させてしまう。その意味では、愛国心をめぐる先の教育改革の方向性は全く間違っていなかった。国民に愛国心のない国に、どうして栄光があろうか。問題は技術的な側面のみだ。

 先日の私的な理想の教育プランに関する記事では、「国民をつくる」作業はもう終えていると書いたが、このコンサートを見た今、精神教育は常に必要であることを痛感している。道州制の議論の中で、教育まで全て地方に丸投げしてしまおうとする動きもあるが、これは大間違いだと思う。やはり、歴史など、国民精神教育は国家が責任をもって監督すべきで、そうでなければ、日本の行く末は暗いものになるかもしれない。

 

 「君が代」も悪くないが、もっと勇ましく歌えるような準国歌のような愛唱歌が生まれないものだろうか。他国のコンサートを見ての感動を、自国で我が身をもって感じてみたいものだ。 

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2007年2月 5日 (月曜日)

教育について考えてみた

 このブログでも教育に関する話題を結構多く取り上げていますが、僕が暫定的に考えている教育制度の理想プランを述べてみたいと思います。

  もはや日本の教育は、文部科学省による護送船団方式では失墜するばかりだと僕は思っています。現場を知らない文科省がいろいろ机上の空論を並べても、その政策が全国に浸透するのには時間が掛かりますし、浸透したところで政策そのものが誤りであれば大変な損害を未来の日本に押し付けてしまうことになりかねません。昨今のゆとり教育の問題化にしても、旧文部省が理念だけ現場に押し付けて、後の責任を丸投げしたことにそもそもの原因があるのです。結果、学校や家庭は適切な手段を講じることを怠ったり遅れたりで、子供たちにただ単に暇な時間を与えるだけのものになってしまいました。空いた時間は塾の時間になって、家庭の教育出費は増すばかりでなく、日本の教育の塾・予備校への依存度は増し、学校教育の空洞化に拍車が掛かりました。また、暇な時間に子供がすることといえば、ゲームに興じることが多く、地域との交流があるわけがありません。

 理念はご立派ですが、無策の愚挙だったと断じざるを得ません。

 国家が行う教育には、「国民をつくる」という大目標があります。それは、母国語を覚えさせたり、共通の価値観を植えつけたりということによって、国としての体をなさせることが必要だからです。明治以来、日本は中央集権的な教育によって均質的な「国民」をつくり出し、その力を結集させることによって西洋列強に肩を並べたばかりか、世界第二位の経済力を持つ国まで上り詰めました。

 もう、均質的な「国民」をつくるという目標は十分に達成されています。そして、21世紀になり、この高度情報化・ボーダレス化の時代の中では、多様性のあるオリジナリティーが求められるようになっています。もはやただ均質的に国民をつくるだけでは日本は国家として生き残ってはいけなくなっています。日本が今世界を席巻している分野を見ればお分かり頂けるでしょう。先端技術やアニメや日本食など、その独自性を世界は評価しています。

 加えて、日本は地域がその活力を取り戻さない限り、日本全体としての活力は生み出せないと僕は感じています。

 これからの日本のテーマは「総力戦」なのです。

 よって、僕は教育に関する権限・財源を地方自治体に大幅に移譲すべきであると考えます。文科省の役割は、教科書検定くらいで十分のように思います。ただし、文科省が口出しできるのは内容に学術的誤りがあったり、歴史観に不都合があったときだけに限定し、教科書のレベルに関しては口を出せないこととします。これは歴史認識等はやはり国家として統一しておくべきでしょうし、以下の論考で示されるように教科書のレベルは幅広いものでなければならないからです。

 6・3・3・4制がいいかどうかは別として、教育期間の制度は当然全国一律です。しかし、教える範囲やカリキュラム、登校日は地方ごとに異なって全く構わないと僕は思います。文科省は義務教育と高校に区切って「義務教育では最低限これだけ、高校では最低限これだけ教えなさい」という目安を示し、あとは各地域の判断で何をどれだけプラスアルファで教えるか、または教えずにほかの学習や総合的学習に向けるかを決定します。高校・大学入試は最低限度範囲からの出題にすれば、他地域への進学でもほとんど不利になることはないでしょう。

 また、地域の小学校・中学校・高校・大学の枠を超えたネットワークづくりもこの先重要です。こうした相互関係を深めていくことによって、教育に一貫性が現れます。また、これらの交流がなされることによって、様々な情報が共有されることで、地域での教育に一体感が生まれ、既存の枠を超えた様々な取り組みに弾みがつくでしょう。

 教育機関同士のネットワークだけでなく、地域企業や地域社会と学校とのコラボレーションも地域力の醸成には欠かせません。

 地域が生き残っていくために必要な人材は、やはり地域が生み出さなくてはなりません。また、地域全体が教育に関わることで、地域に連帯感が生まれ、最近問題となっているいじめや親の問題も少しは解消するのではなかろうかと思います。

 地域に根ざし、いたるところにネットワークを張り巡らすことによって、地域総がかりで教育に取り組み、その結果として地域に活力が還元される。これこそが日本の21世紀の教育に必要な考え方ではないでしょうか。

 そして、各地域で独自教育を施すことによって、地域に差異が生まれます。これを格差と思っては元も子もありません。これは「個性」です。もしこれが地域にとって好ましからざるものならば、他の地域を参考にしつつ調整すればよいのです。こうして、悪い取り組みは改善され、よい取り組みだけが残ることになれば、結果としての日本の人材に多様性が生まれ、国力は増強すると僕は信じています。これはいわば、国家を挙げた壮大な実験なのです。

 

 しかし、これを実行するには少なくとも5~10年の準備期間が必要でしょう。

 まずは、地域の教育委員会を大幅に増員するとともに、実行力のある実務部隊に編成しなおす必要があります。また、教育委員会と現場や地域との風通しをよくする策が必要です。ミニ文科省が乱立したのでは意味がありませんから。小回りの利くスピード感のある組織が必要です。

 具体的に教育プランを練る必要もありますし、学校ごとのシラバスを仕込まなければなりません。地域間の根回しや関係構築も必要です。 

 また、地域住民はこれらの動向に積極的にコミットしなければ、真の成功はありえません。

 何かと混乱が生じそうなプランではありますが、教育に風穴を開けてくれるのは確かです。皆さんはどう思われましたか。

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2006年12月21日 (木曜日)

マスコミについて

 こちらの記事に関してRig様から以下のコメントが寄せられました。

おひさしぶりです。先日は詳細なコメントを頂きとても嬉しかったです。

 今回の問題について私は全く無知なので多くは言えませんが、一点申し上げたいと思ったことが有りました。それは「重要法案の国民への公表」のやり方についてです。
 現代の日本では、マスコミが世論を形成するのに重要な役割を果たしていると言われます。今回の安倍総理の「伏兵」作戦とも言われかねないやり方では自民党の公表のやり方も問われるべきですが、私はむしろ世論形成の一端を担うマスコミこそ責任を問われるべきだと思います。情報の取捨選択や、積極的情報入手などが必要とされる時代ではありますが、マスコミにはそれを積極的に国民に知らせていこうという姿勢が必要なように思えます。自民党に食い下がればこのことを隠してはおけなかったことでしょうし、これを情報社会の先端にいた人々は知っていただろうと思います。もしかすると、そのような人々が何らかの利害で敢えて広く伝えようとしなかったのでは、と邪推してしまいます。私は自民党にもマスコミ、というよりも日本のジャーナリズムに少し不信感を抱いています。

 

 僕は早速コメントの返事を書いたのですが、思いのほか長い文章になってしまったので、ここに記事として掲載します。後から読み返してみると、勢いに任せて書いたためかRig様のコメントの趣旨とはかなりずれてしまったかもしれませんが、そこは御容赦願います。

 

 久しぶりのコメントありがとうございます。最近なかなかコメントをお寄せ下さる方がいらっしゃらないので寂しかったところです。
 
 マスコミのことに興味がおありでしたら、お暇なときにそういったことに関する書籍を読んでみてはいかがでしょう。僕が先日ブログ内でご紹介した「メディア危機」でもいいかもしれません。

 テレビに限っていえば、テレビ局は視聴率が取れるような内容・レベルで報道しますから、報道がとても感情的なものであったり、情報が偏ったりすることは常に有り得る事です。現に国民受けが良かったり、当たり障りがないものの報道が横行しています。しかしそれは我々国民に合わせて作られているわけですから、結局のところテレビ報道がおかしくなるのも国民の責任によるところが大きいのではないでしょうか(何か陰で圧力が加えられているときは勿論別ですよ)。どこのテレビ局も同じような内容を同じような切り口で報道しているのを見ればそれもお分かりになると思います。余談ですが、アメリカのテレビ界はケーブル放送なので、数多くのテレビ局が乱立し争っていて、ある層をピンポイントに狙った独自性のある報道が比較的しやすいというのをどこかで読んだ記憶があります。まあ、あの国の報道も問題が色々あると思いますが。この間のイラク戦争がいい例です。

 それから、テレビは新聞とは違って、視覚・聴覚に対し大量の情報を一方的に送りつけてくるため、見る人に情報に関して熟慮する暇をあたえず、そのまま鵜呑みにさせてしまうことも大きな問題でしょう。そういう意味では新聞の方が情報を消費する側にとっては比較的安全といえると思います。自分のペースで読めますから。しかし、最近では若者の新聞離れが進んでいます(今週授業でやりました)。ですから、いわば準知識階級の卵みたいな人たちや、低知識層の主たる情報源はテレビやインターネットということになります。インターネットも、新聞に比べて情報を探すことがおっくうであるため、実際に知る情報は限られてきますよね。自分の興味のある範囲だけ少し見てみるだけとか。だからインターネットも一概に良いとは言えません。その上、最近ではニュースを見ない人すら増えているといいます。(そういえば、僕が高3の頃、同じ文系アッパークラスに「派閥」を知らない人がいて、開いた口がふさがらないほど驚愕したことを思い出します。)

 基礎知識が欠けている人が増えたとき、でたらめな論理を報道することで世論を誘導することはいとも簡単でありましょう。マスコミが危機というよりも、国民サイドが危機的水準に達しつつあるのかもしれません。

 そういえば、先週の放送大学で、欧米では教育現場で積極的にメディア・リテラシーを教えているというのをやっていました。調査結果によると、日本の子供達はテレビ世界と現実をごっちゃにしているそうです(バラエティーに出てくるキャラクターが現実に実在するなどなど)。これは日本人がテレビ創成期からテレビをポジティブに受け入れてきたからだそうです。「テレビを疑わない」これが日本人の幼い頃からの姿勢になっているのです。これに対して、これからの教育で必要となってくるのは「まずは疑ってかかれ」という姿勢のメディア・リテラシー教育です。まだまだ教材やカリキュラムなどができていないそうで、研究途上なのですが、テレビ以外のメディアに接するときでも必ず必要なスキルであることは間違いありません。 

 とにかく、マスコミが変わるためには国民が変わる必要があるというのが今のところの僕の見解です。クオリティーの高い報道を求める声が大多数ならば、その声に応えて何らかの形で実現してくれる団体・企業も出てくることでしょう。最近の動きを例にとれば、「オー・マイ・ニュース」の取り組みが挙げられると思います。僕は見ていませんが。でもそういった試みは歓迎しています。もっともっとマス・メディアが真剣に取り組んでくれるように我々もレベルアップしていきましょう。

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2006年11月28日 (火曜日)

郵政造反組復党は許せるか

 「国民に聞いてみたい。」 そう言って小泉純一郎前総理が衆議院を解散させ、結果自民党が大勝したのも、たった1年前の話であります。

 郵政民営化法案に反対した自民党議員は除名処分を受け、それでもなお、無所属立候補し民営化に反対して当選した議員は12名いましたが、この程、平沼議員を除く11名は復党確実となったようです。

 自民党は「復党願」とともに「誓約書」も提出させることで、一定程度のけじめをつけたつもりです。

 果たして、これは許されることでしょうか。安倍晋三総理総裁の勇み足ではないでしょうか。

 そもそも、先の衆議院議員選挙で当選したいわゆる「造反組」議員たちは、立候補時点では「無所属」で「郵政民営化法案反対」の立場だったはずです。選挙民もそんな彼らに一票を投じたわけであって、それを今更、政治資金が枯渇寸前という理由で、そうした立場をあっさりと捨て去って自民党に復党するというのは、有権者への冒涜ではないでしょうか。それ以前に、当選後の衆議院で郵政民営化に賛成票を投じている時点で冒涜ですが。こうした事が罷り通る国で、本当に政策本位の政治が実現するのか甚だ疑問に感じます。この様子だと、そんな国になれるのはまだまだ先のことのようです。

 大体、無所属になれば政治資金が足りなくなるというのは、立候補する前に既にわかっていたことのはずです。それにも拘らず立候補するとは、あらかじめこうなる事を予期していたことが透けて見えます。政治資金面に問題があるなら、はじめから選挙に出なければよかったのです。愚かしくも立候補して当選した後に古巣に泣きを入れるとは情けないことこの上ありません。

 「造反」議員個人の身勝手な振る舞いによって、有権者との契約は破綻しています。彼らに投票した有権者は、彼ら個人への支持ももちろんあるでしょうが、自民党政治に疑問をもっていたり、郵政民営化に反対だったから彼らに票を与えたのです。今回の件はこうした声を無視するものであります。

 現段階では、統一会派に合流する程度で留めるべきです。郵政民営化以外の政策は、本来自民党と同じ方向なのだろうし、有能な人物というのが埋もれたままなのもったいない話ではあります。しかし、少なくとも、有権者との契約更新となる次の衆議院議員選挙までは、復党すべきではありません。

 しかし、「誓約書」を書かせた中川秀直自民党幹事長に対して、自民党内から厳しすぎるという声もあるようですが、僕はこうした声をあげて復党を歓迎する人達の感覚が容易に理解できません。除名処分というのも、自民党の党紀委員会で厳正に決定されたもののはずです。それを約1年で党紀委員会自身が自らの決定を覆すとは、自民党の党紀というのはそれほどお粗末なものでしょうか。国民から手痛いしっぺ返しを受けても後の祭りです。

 国民サイドも、こうした動きがおかしいと感じるなら、真っ向から反対して見せるべきです。そうでないと、いつまで経っても国民本位の政治が実現することはないでしょう。有権者は政治家達に見くびられていることに気づかなければなりません。これは我々が我々国民による国を手にするための闘いの一部なのです。

 皆さんはどのようにお感じになっていますか?

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2006年11月 2日 (木曜日)

教育基本法改正問題についての小考

 当ブログの10月27日付けの記事に対するRig様の久々のコメントに対して、返答のコメントを書いたところ、かなり長いものになってしまいましたので、ここで独立した記事として掲載します。

 Rig様の仰るとおり、なぜこの時期に未履修問題が発覚したのかは考えてみる必要があるかもしれません。安部政権をアシストするという意図も感じられないわけではありません。しかし、今の段階では何とも言いようがありません。そのため、報道するマスコミに問うてみるしかないとコメントしたわけです。
 
 憲法とは、国を縛る約束です。国家権力の暴走を食い止めるためのものですね。教育基本法も、公的教育の原則を定めるものですから、あなたの仰るように憲法に近い性質を持つともいえるでしょう。

 あなたは今これが愛国心を重視した物に改正される動きがあることに関して、軍国主義の再来の予兆だと思われているようですが、それは少しオーバーなのではないでしょうか。仮に再来したとしても、かつてのようにひどくはないと思いますが。 

 なぜかというと、現在日本という国は「軍」を持っていませんし、自衛隊は文民統制の制度が確立しています。それに第2次世界大戦後、国民は戦争アレルギーを抱えています。教育基本法が改正されたからといって、軍国主義に傾いていくというのは少し論理の飛躍があるような気がします。僕としては、教育基本法よりも、日本の脆弱なマスコミの方が心配です。今の日本のジャーナリズムは非常にまずいと思いませんか。

 さらにいえば、今の日本人にはどこか「個人主義」がはびこっていて、全体への奉仕の心が薄れつつような気がします。もっとも、この「個人主義」とは、欧米の個人主義とは違うものであると思いますが。欧米の個人主義はその根底に相手へのリスペクトがあり、その上に個人の自由が成立しています。日本の「個人主義」は、「自分さえよければあとはどうでもいい」主義。こんな状況下にいることを感じているのは僕だけでしょうか。これを変えていくため、過激にならない範囲で国や地域への愛を持たせるのはそんなに悪いことではないと思えます。まあ、愛というのは押し付けられるものではありませんから、「日本人の一員として、自分が愛せる国や郷土を自らの手でつくり、育んでいく責任と気概を持て」ぐらいの意味合いであればいいのではないでしょうか。

 そもそも、公的教育とは「国民」をつくるためにもあるのです。同じ言葉や価値観や考え方、日本人とは何かを学ぶことで、国民全体に一体感を持たせる役割があります。たとえ、顔かたちがほとんど同じ2人の人間がいたとしても、前述の要素が全く違えば、お互いを分かり合うことは難しく、お互いを「同じ範疇の人間だ」とは思えないでしょう。このような性質を持つ教育だからこそ、国民性を変える力も持っているといえます。この力を正しく活用することで、日本がもっとよい国になれるでしょう。
 
 こうした意味で、教育基本法は非常にデリケートな法律です。僕は今の改正の方向性は間違ってはいないと思いますが、現行の基本法には道徳に関する記述がないため、今回の改正で新たに「愛国心」の記述をすることに強い反発の声もあります。法律の性質自体が変わってしまうのは、僕も少しそれでいいのかなと思いはしますが、慎重に議論を重ねた上で力を正しく使えるような形で決着できれば、それでいいと考えます。

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2006年8月31日 (木曜日)

24時間テレビに価値はあるか

 今年もやっていました24時間テレビ。毎回思うのは、この番組に果たして意味があるのかということです。いや、意味がないことはないでしょう。全国各地から多くの募金を集める集金力は流石です。しかし、ここでは敢えて、本当の意味でこの番組を続ける意味があるのか問いたいと思います。

 

 疑問① 年1回というペースは妥当か?

 果たしてこの頻度が本当にいいのかわかりません。24時間テレビといえば、やっていることは毎回同じ事。しかも、長時間にわたって障害というテーマを取り上げます。目を向けるべき事ではありますが、どうしてもその重さ故に飽きが来るのではないでしょうか。そのような意味で、パラリンピックに合わせて4年に1度程度でもよいかもしれません。

 

 疑問② 24時間続けるのは妥当か?

 24時間というのはやはり長丁場。有意義な企画があったとしても、時間が余ってしまいます。その合間を埋めるために、どうでもいいような(趣旨が不明確な)企画を挟むので、全体としてのクオリティーが下がっている感が否めません。また、深夜の時間帯になると、そこで行われているのは24時間テレビの趣旨とはかけ離れているようなバラエティーです。しかも、近年ではまれに見る低俗さ。これが同じ「24時間テレビ」という冠で放送されているのですから、日本テレビはどこまで本気なのか解しかねます。いっそのこと、深夜は番組を中断しても良いと思うのです。正当なる思いで番組を観ている人はこの時間には少ないでしょうし、このことが番組自体にマイナスになるとは考えられません。24時間貫徹にこだわることはないと思うのです。

 

 疑問③ 100㎞マラソンをする意味はあるのか?

 多くの人がこの点に疑問を持たれていることでしょう。私も同感です。何のためのマラソンなのか、全くもって意味不明です。確かに、100㎞を走りきるというのは凄いことです。しかし、この企画は番組全体に対してもいえることですが、つくられた感動の押し売りになってはいる気がして、どうも胡散臭いのです。マラソンランナーに抜擢される人は、依頼されるのであって、自ら率先して志願したわけではありません。その上、ランナーが芸能人(もしくはそれに準ずる人)であるため、我々視聴者は、もはやあのマラソンをその人が仕事で走っているという印象しか残りません。そんなマラソンを続ける意味はあるのかはなはだ疑問です。

 

 疑問④ 募金の使途の説明責任を果たしているか?

 今年は番組終了間際の時点の集計で3億円近くのお金が集まっていました。高校の生徒会時代に募金活動経験がある僕としては、思わずため息が漏れてしまったほどです。しかし、問題はここからで、募金を集めた者にはその後説明責任が残ります。マスメディアであるテレビ局なら尚更です。果たして、日本テレビはこの責任を果たしているでしょうか。僕はテレビという媒体を扱っている企業にしてはまだまだ不十分だと思います。日本テレビが全体として番組の趣旨と彼らの責任に対する自覚が欠如しているような気がしてなりません。

 

 疑問⑤ 募金をした側は募金をするだけでいいのか?

 募金というのはお金を渡した時点で完結するものではなく、その後そのお金が正当に使われたかをチェックしていく必要があります。日本テレビ側がこの辺の説明にルーズなのも、募金した側からのプレッシャーが掛かっていないからではないでしょうか。そもそも、自己の気持ちを満足させるためだけに募金する人が少なくない気がします。そこに相手への真心がこもっていないと全く意味がありません。「募金」と「徴収」は違うのです。

 

 疑問⑥ つくられた感動の垂れ流しではないのか?

 この番組の根本的な問題です。これは視聴者それぞれの感覚の問題ですが、個人的には、この番組で取り扱うどんな企画もどんなエピソードも日本テレビが感動を「狙った」ものであるように感じます。そのため、進んで観る気が起きません。何となくウンザリしてしまうのです。

 

 24時間テレビは問題を多く抱える番組のように思えてなりません。1度放送しない年をつくってみて、本当に我々にとって必要な番組かどうかじっくり検討してみたらどうでしょうか。今年観た後の感想としては、サライを歌う最後の10分間だけで十分なような気がしました。あの歌のおかげであの番組はもっているのでしょう。   

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2006年8月20日 (日曜日)

エネルギー消費大国アメリカの実態を垣間見た

 今日付の日本経済新聞を見て、思わず腹が立ってしまいました。

 今夏、米国各地で停電が相次ぎ、その中でも特に、記録的な熱波が襲ったニューヨーク市は深刻だったそうです。

 原因は10本近い送電線が同時に利用不能になったため。何故そうなったかは判明していませんが、一般的な見方は同市の電力使用量は過去10年間で約2割増加、今年も過去最高を更新しているからというもの。そこfで、市当局と電力会社は市民に節電を呼びかけたそうです。

 自然環境保護団体もサイトで身近な節電方法を紹介しました。その一例。「冷房を使うときは窓をきちんと閉める」

 ここまで読んで呆れ果ててしまいました。そんなことは日本人には常識ではないですか。アメリカ人はそんなことまで言われないとできないのかと憤慨しました。

 その自然保護団体の広報担当の話。「米国は今まで光熱費が安く、省エネ意識がなかった。」 

 なるほど。省エネ意識が欠如しているというのはさっきの一例からもよくわかりました。京都議定書から平気で脱退したのも頷けます。莫大なエネルギー消費によってGDPが高いとまで揶揄される所以も納得できるような気がします。しかし、エネルギー消費大国であるアメリカ抜きにはエネルギー消費削減や地球温暖化の防止も無理なのも事実です。アメリカ人にはより一層の自覚が必要だと思います。

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2006年8月12日 (土曜日)

8月9日を終えての再考察②

 核兵器について考え直してみました。

 まず、核兵器は善か悪かを考えてみますと、できることなら存在してほしくなかった代物です。前の記事でも述べましたが。

 では、核兵器を廃絶させることは可能なのでしょうか。既に何万発も製造されているうえ、人間に科学力がある限り廃絶は不可能でしょう。既に手にしている強力な力を失うようなことをする国があるとは思えません。数を減らすことは可能でしょうが。

 では、ここで核兵器による国際政治学上の「バランス・オブ・パワー(力の均衡)」という考えも考慮してみましょう。いわゆる冷戦下では、アメリカとソ連が突出して核兵器を保有し、核抑止力によって世界の秩序を安定させていました。日本もまた、アメリカの「核の傘」の下に入ることで、防衛上かなり有益であったと思います。もはや、人類が手にした核の力は人類世界の安定には切り離せない存在になったといえます。しかし、現在では国際体制(NPT)外の国が核開発を行って核兵器を保有するようになりました。限られた保有国に対抗する意味合いもあるからでしょう。これからも、連鎖的に核兵器を持つ国は広がるかもしれません。しかし、これは大変危険です。国内的にも国際的にも不安定である国が核を保有することほど恐ろしいことはありません。いつ暴発するかわかりませんから。しかし、ここまでは通常の「バランス・オブ・パワー」論がなんとか通じます。現在・将来的に大きな問題はテロリストなどの、領土を持たない組織が核兵器を保有する危険性が高まっていることです。領土を持たない命懸けの相手に対して核抑止力が有効かは疑問です。現代では、核が必要であるという部分と、核が存在することで生まれる危険の2つが並び立っていることがわかります。

 そこでこれから重要なのは、「核兵器を持たせない」ではなく「使わせない」社会の実現だと思います。これには国際的な情勢の安定から始まり、全世界的世論の喚起や、徹底的な監視・制裁体制の実現が必要となるでしょう。今のNPTやIAEAの体制のままではいけないと思います。もっと強力な仕掛けがいるでしょう。新条約や権限強化が無難な案でしょうか・・・。妙案とは思えませんが。いつまでも国連頼りというのも、頼りない話ですね。国際的世論を動かすのは、教育やメディアやNGOの役割です。世界中で8月に核兵器について考えてほしいです。学校で教えたり、メディアで特集したり、NGOが啓蒙したりして。主眼としては平和学習というのではなく、核兵器の脅威・被害の実態についてのみ扱うがいいでしょう。「戦争をしてはいけない」ではなく「いつ如何なる場合においても核兵器だけは使ってはいけない」。この理由は、個人的な考えとして、平和主義者が増えることが本当に良いことなのかわからないからです。核兵器が人類の手に余る代物であると認識してもらうだけで十分です。

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2006年8月11日 (金曜日)

8月9日を終えての再考察①

 原爆をただの巨大爆弾だと誤解している人がいてほしくありません。ある人はその著書の中で、(空襲でも後遺症があるため)原爆と東京大空襲は同じようなものだと思う、苦しまずに一瞬で死ねるから原爆の方がマシだともと書いていました。僕はそれを読んだ後、何度も考えましたが、現在の考えでは、そうではないと思います。

 兵器とは、戦争状態が終結した後において禍を振りかざすものであってはなりません。その意味で、地雷であるとか、不発弾などというものが忌避されるのは当然でしょう。核兵器の脅威は、前挙のものとは違い、放射能は黙視できず、それが人体に恐るべき悪魔を植え付けていくということです。被爆者はいつ如何なる症状が出るかもわからず、その子供達へ魔の手が迫ることもあります。放射能は遺伝子へダメージを与えるのですね。また放射能だけではなく、強力な熱線も後々まで後遺症を残します。

 また、原爆という代物は、我々人類の科学力の粋ではありますが、我々はこの恐るべき存在によって我々自身を悪魔のしもべとしてしまいました。もはやこの兵器の前では、戦場での1対1の命のやり取りが美しくも感じられます。何世紀も前ならば相手の命を奪うとき、必ずその実感が各々の体と心に刻み込まれるでしょう。ボタン一つで可能な実感なき大量殺戮ほど惨たらしいことはありません・・・。後世のためにもならないでしょう。

 今や、兵器は我々の能力を超える域に達しています。鎧兜を着て、刀や槍や矢で生々しく戦っていた時代が懐かしいものです。

 人類は遠くない将来、持て余した「力」によって滅び去るのかもしれません。むしろ、その方が良いような気もします。61年前に、来るところまで来てしまったのですから。

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2006年8月 8日 (火曜日)

東京裁判

 最近、東京裁判を、勝った側の論理によって一方的に裁かれた裁判だとして否定する人が様々なメディアの場に登場しています。僕は彼らに対して懐疑的な念を抱かずにはいられません。

 東京裁判を否定するということは、現在の日本の国際的地位を否定することとほぼ同義だといえます。なぜなら、この東京裁判を下敷きにしてサンフランシスコ講和条約締結や日中国交正常化が成されたからです。東京裁判を無下にすれば、時代の歯車は終戦直後まで遡り、我々は世界で国際法上孤立するも同然です。

 そもそも、その時代の先人達が、異議はあったかもしれませんが、この判決を受け入れて新たな時代の国際関係を確立させようという英断を行ってくれたわけです。それを戦後60年も経った今に生きる我々が、先人達の想いの上にあぐらを掻いているにも関わらず、その思いを踏みにじるようなことをして許されるのでしょうか。

 このような自己否定的な考えを声高に主張する人の多くは、否定した先のことまで考えてはいません。日本人としてのプライドが満たされさえすればそれで満足といった人達のように思います。自己否定のその先には、当然新たな国際関係上のプランを練っていなければならないはずです。大概の人にとって、このあたりは無策です。サンフランシスコ平和条約や日中平和友好条約を破棄して、新たに講和条約を結ぼうとでもいうのでしょうか。そのような無責任極まりない人は、この問題に関して考えを主張する資格などないと考えます。

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2006年8月 5日 (土曜日)

いよいよ人口減少社会到来

 政府の発表によると、日本の人口が減少に転じたとのこと。いよいよ多くの人々が危惧する人口減少社会に突入したようです。しかし、僕はそこまで悲観視してはいません。日本の持てる力を巧く使いこなすことができれば、事態を打破できると信じたいと思います。また、人が減れば社会インフラに余裕ができて住みよくなるかもしれません。そもそもこの狭い国土に対して人口が多すぎた感があります。そのために固有の美しい自然は次々と破壊され開発が進められてきました。人口が減ろうとも、それがどうしたというのでしょうか。我が国は必ずしも経済大国で在り続ける必要はないのです。その時々の身の丈にあった経済力で十分ではないでしょうか。一人あたりの経済力が維持できれば、国全体としての経済力が多少衰退しようと問題ありません。年金や保険等は制度設計をやり直す必要があるでしょうが、働くことに喜びを見いだすことのできる民族である日本人は一生現役になろうとも何とかやっていけることと思います。とにもかくにも、日本が自身の強みと弱みを正確に把握し、強みを最大限に生かしていかなければならないことは確かです。加えて、食糧自給が100%自前で行われるようになれば最高です。鎖国しても生きていけますからね。

 日本の将来を悲観視する論調が横行していますが、これに反論する書籍を紹介します。この著者の本はどれも読みやすいですよ。しかも、頭に染みついた「常識」をきれいに洗い落としてくるのでお薦めです。

「人口減少」で日本は繁栄する―22世紀へつなぐ国家の道 Book 「人口減少」で日本は繁栄する―22世紀へつなぐ国家の道

著者:日下 公人
販売元:祥伝社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2006年7月25日 (火曜日)

円谷プロに物申す

 さて、今日からまた色々語りますよ。

 まずはじめに断っておきたいのですが、これから述べるのはあくまで僕個人の意見です。

 最近、いやもっと前からですが、平成「ウルトラシリーズ」に大いに不満を持っています。かつてのようなクオリティーがないのではないかと。

 僕の「ウルトラシリーズ」との出会いから話を始めましょう。

 変かもしれませんが、初めて僕が出会ったのはウルトラセブンです。ウルトラセブンといえば、35年以上前に放映されていた作品です。僕は19歳ですから、世代的には一致しないのですが、僕が3歳ぐらいのときでしょうか、RKKという熊本の放送局で再放送がありました。僕は長崎生まれの長崎育ちですから普通は接点はないのですが、島原(長崎県で最も熊本県に近い)に住む伯母さんが親切にも録画したテープを毎回くれたのです。衝撃的でした。なにせ、初めて見たのが「明日を捜せ!」という回で、シャドー星人とガブラという怪獣が出てきたのです。このシャドー星人というのが3歳の子供にはへヴィーでした。顔がメタリックで無表情なうえ、人間を拷問するのです。また、ガブラもかなりへヴィーでした。うろ覚えなのですが、確か、セブンがアイスラッガーで倒したかと思いきや、切断された首が飛んできてセブンに噛みつくのです。初めて見た怪獣が、なんと恐ろしいことか。

 怖いという気持ちもありましたが、ウルトラセブンにはすぐハマってしまいました。なぜなら全てがカッコいいからです。無敵のヒーロー・ウルトラセブンはもちろんのこと(完全に無敵ではなったけれど・・・)、地球防衛軍という設定や、基地の内部やウルトラホーク(戦闘機)やポインター(水陸両用車)、それらの発進シーンに至るまで、とても35年以上前につくられたとは思えないほど科学的で、創造的で斬新でした。(最近知りましたが、1980年代あるいは2000年という設定だったそうです)

 また、この作品のさらなる魅力は、ゴジラの初期に通じるような、人間に対する疑念があちこちに散りばめられていることでしょう。これによってウルトラセブンがその他のウルトラシリーズやヒーローものとは一線を画しているのです。(ウルトラマンにも多少見受けられますが)  例えば、ギエロン星獣や、ノンマルト、ユートムなどが出てくる回が挙げられます。以下、少しこれらについて。

 ギエロン星獣・・・地球防衛軍が水爆の数千倍という威力の超兵器「R1号」を開発。絶対に生命体が存在しないと思われた灼熱の星、ギエロン星で実験する。実験は成功し、ギエロン星は木っ端微塵に破壊された。しかし、実際には生物が存在していて、「R1号」の爆発によって、大量の放射能をあびたことで恐ろしい怪獣となり、母星破壊に対する復讐のため地球に飛来した。この後、地球防衛軍は超兵器の開発を中止した。

 ノンマルト・・・「人類こそがその昔宇宙から来て地球を侵略したのだ、自分たちこそが地球の原住民だ」とする海底人。人類の侵略に際し、地上から海底へと逃げたが、いま人類がその海底をも開発しようとしているという危機感から、人類への攻撃を実行した。ただし、これらの証言は人間の少年(実は霊魂)によってなされ、ノンマルト自身が言った訳ではない。 地球防衛軍はこの話を否定し、応戦する。

 ユートム・・・地下に存在する謎の都市で生活するロボット。この都市は地球防衛軍によって破壊される。

 さて、本題に戻りましょう。これらの魅力ある「ウルトラ」はセブン以降衰退したと僕は見ます。レオまでは、ウルトラ戦士のデザインに関してはまあまあですが、そのほかはどんどん散々なものになっていきます。設定が子供だましで、戦闘機や車などもダサい。怪獣には質感がなく、リアリティーもありません。(ヤブール人による人工合成生物という設定である「超獣」はリアリティーがなくても構いませんが。)  何か壮大な問いかけがあるかといえば、僕の知る限りほとんどありません。平成のシリーズはそれまでに比べて一気に質が下がります。上記のものに加えて、歌や音楽もいまひとつ重厚感にかけるといった印象です。加えて言えば、CGで問題を片づけようとする精神が気に入りません。不可能を可能にするという円谷特撮の根性は何処へ行ったのでしょう!

 このほど、ウルトラマンメビウスの映画があるようです。マンからAまで、主演俳優もそろって登場するとか。それはそれで面白そうですが、なんとなく幼い夢が壊されそうな気も・・・。 おまけに、ガッツ星人も再登場するとか。ガッツ星人といえば、セブン本編で唯一セブンを磔にし、殺害の一歩手前までいった恐るべき相手。デザインもかなり不気味さが出ていて、幼い日の僕にはとても怖いものでした。昔、僕が高熱で寝込んでいたときの夢にコイツが出てきたときほど恐ろしい夢は今まで見たことがありません。真夜中の大倉庫の闇の中で、ガッツ星人が僕を襲おうと追ってくるのです。殺される寸前で目覚めた記憶があります。もう二度と夢に出てきてほしくありません。そんなガッツ星人ですが、映画での新しいデザインを見たら悲しくなりました。やっぱり質感不足なのです。ちっとも恐ろしくありません。むしろ滑稽です。見た子供が悪夢を見るぐらいのものにしてほしいものです。また、あり得ないほど巨大な怪獣が登場しますが、予告映像を見たところ、コイツとのCGの戦闘シーンなどは目を覆いたくなるほど幻滅しました。

 まとめますと、円谷プロはかつての作品を超えるものをつくろうという気概がまだまだ足りないと思います。ウルトラセブンは総合芸術でした。これを超える作品はもう出ないのでしょうか・・・。

 ああ、つい熱がこもって語りまくりましたが疲れました。。。

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2006年6月23日 (金曜日)

それでいいのかNHK①~ニュース番組~

 今春のNHKの番組改編で生まれた番組、”ニュースウォッチ9”をよく聴いています(部屋にラジオしか置いていないため)が、これでいいのかと思うことが多々あります。

 この番組には以前から期待をかけていたのですが、それまでのNHKらしからぬ番組のような気がします。NHKの夜の1時間枠ニュース番組といえば、政治・社会の硬めのニュースを取り上げていたというイメージなのですが、この番組は他局もやりそうな大衆的な話題を重点的に扱っている印象があります。最近では他局でも見るようなワールドカップコーナーにかなりの時間を割いていました。

 他局と話題が重複するのは仕方のないことだと思いますが、NHKにはもっと深い中身を求めます(この点ではまだ頑張っていると思いますが、さらに良いものを期待しています)。ただ、殺人事件などの報道にウエイトを掛け過ぎているように思えるので、これを縮小し、他局が取り上げないようなものも積極的に取り上げてほしいと思います。例えば、アフリカの内戦がどうなっているとか、そういった大局的な世界情勢です。そういったことを僕を含めて日本人は知るべきで、そうした幅広い情報を中立な立場で伝えることができるのはNHKだけだと思うからです(NHKの海外についての報道力に関しては僕の国際政治学の先生も認めていました)。現在も週末の総合テレビで世界情勢を伝える番組が放送されていますが、まだ不十分です。また、BSではより詳しい内容のものがあっているようですが、BS加入者以外もそういった番組が見られるようにするべきです。是非、9時のニュースで少しずつ頻繁に取り上げてもらいたいと思います。欧米を重視する偏った知識だけでは、21世紀の日本人は道を誤るかもしれないという危機感を抱かざるを得ないのです。

 公共放送として、国民に必要な報道を等しくする一方で、まだまだ無知な我々に世界を大局的もっともっと見せてほしいと思います。

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2006年6月21日 (水曜日)

小学校英語必修化に疑問を呈す

 必修化に向けた動きが着々と進んでいるようですが、実際に必修化にして効果はどれほどあるのでしょうか。

疑問①教員について

 小学校教員は英語教育について知識は少ないでしょうし、実際に英語が苦手という人も少なくないと思います。経験もありません。大学を卒業してから、英語とはすっかり疎遠になっていることでしょうから、文法・語彙・発音など様々な面で力があるのかわかりません。教師の過去に英語が得意だったか不得意だったかが教育に深く関係してくるため、教師一人ひとりの差が大きいというのが現状ではないでしょうか。

 また、ALTを活用してそういった問題を補おうということになってくると思いますが、ALTは日本語がおぼつかない人が多く、教師とALTの間の意思疎通が潤滑に図れるかわかりませんし、ALTの指導力も人によりけりです。

 そういった状況下で全国画一的にこれを実行し、成功させるのは不可能に思います。

疑問②教育内容について

 まだどうなるのかよく知らないのですが、小学校で必修化しても、その期間でやることといえば、基本的挨拶や簡単な文法・単語を使った会話程度ではないでしょうか。それをやったからといって、果たして予想されるような効果があるのでしょうか。中学校での内容の前倒しにしかならないような気がしてなりません。あくまで推測を前提にした話なので最終的にはなんともいえませんが、以前主張したように、speaking能力にも重点をおいた教育をするだけでも、「英語を話せる」人は増えていくと思います。

 結論としては、現状と起こりうる弊害を比較して慎重にやってほしいと思います。

 このブログ内の関連記事→”小学校での英語必修化に物申す!!”

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2006年6月17日 (土曜日)

僕が泣ける曲② LET IT BE

 僕が好きなビートルズ。数ある彼らの名曲の中で、最初に泣けるようになったのがこのLET IT BEである。広く知られているように、PAUL McCARTNEYが作詞・作曲している(クレジットはもちろんLennon-McCartney)。

 この曲は、ビートルズの曲の中で最も神聖な雰囲気を持っていると思う。そして宗教的だ。ミサで歌われてもおかしくないのではなかろうか。

 この曲のメッセージはあらゆる苦難に直面している人々を対象にしている。いや、正確には彼らと一体となっている。彼らは思う。「あるがままにあろう。聖母がきっと助けてくださる。きっといつの日か報われる。希望よ消えてくれるな。」 この曲は見事に気持ちを代弁している。それだけでなく、その神聖な曲調と、崇高な精神に基づく歌詞、そして曲の盛り上がりによって偉大な応援歌に昇華を果たしているのだ。これこそまさにビートルズの手腕である。

 困難に直面する度、僕はこの曲でリフレッシュしている。個人的には間奏が明けてからの3番が最も大きな泣き所である。Mother Maryというのが、聖母マリアとポールの母親メアリの2つを掛けたダブル・ミーニング(double meaning)であることもひとつのポイントである。僕はキリスト教徒ではないが、聖母に自分の母親のイメージを重ね合わせながら、苦しい状況のとき神聖な彼女が現れて知恵ある言葉を授けてくれるというのを想像するだけで言葉にならない感動を覚える。

 このような崇高な感動のエネルギーを放つ曲を作った、ポールとビートルズは才能の炸裂ぶりには感嘆するばかりである。

 

 LET IT BEが収録されているアルバムは以下の通り。

Let It Be Music Let It Be

アーティスト:The Beatles
販売元:Capitol
発売日:1990/10/25
Amazon.co.jpで詳細を確認する

Let It Be…Naked (CCCD) Music Let It Be…Naked (CCCD)

アーティスト:ザ・ビートルズ
販売元:東芝EMI
発売日:2003/11/14
Amazon.co.jpで詳細を確認する

THE BEATLES 1 Music THE BEATLES 1

アーティスト:ザ・ビートルズ
販売元:東芝EMI
発売日:2000/11/13
Amazon.co.jpで詳細を確認する

1967〜1970 Music 1967〜1970

アーティスト:ザ・ビートルズ
販売元:東芝EMI
発売日:1998/03/11
Amazon.co.jpで詳細を確認する

パスト・マスターズ(2) Music パスト・マスターズ(2)

アーティスト:ザ・ビートルズ
販売元:東芝EMI
発売日:1998/03/11
Amazon.co.jpで詳細を確認する

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2006年6月14日 (水曜日)

日本のW杯熱に疑問

 12日、サッカーワールドカップ本大会の予選リーグで日本はオーストラリアに敗れた。僕の周りの部屋では日本がシュートしたり、ピンチになるたびに奇声が起こって、大変うるさかった。僕の部屋にはテレビがないので、ラジオで試合模様を聴いていたが、ハーフタイムの間に寝てしまった。起きてみると日本は負けていた。何とない予感が的中した。

 それにしても異様である。この日本全土でのサッカー熱がだ。いつから日本人はこれほどサッカーにのめり込んでしまったのだろう。普段は興味がない人までも、W杯となるとテレビで観戦する。おそらく、前回大会が日本で開催され、日本も予想以上の好成績を収めたためなのかもしれない。それにしても僕は最近不思議でならない。日本人とはこのような人間だっただろうか。つまり、3位以上になることがほぼあり得ない競技を熱心に応援するような人種だったろうか。オリンピックにしても、メダル獲得の可能性が高い競技にばかり目が行き、WBCにしても元々日本は3位以上となる期待が高かった。

 これに対する答えは明白であるように思える。この熱気はメディアが仕込んだものだ。あらゆるメディアが、サッカーの対外試合が行われる度に大きく取り上げ、そしてこの大会が近づくにつれ、どんどん過剰になっていく。日本人は実像以上に日本代表に期待するように仕向けられてきたのだ。NHKまでも、それらの動きに引きずられるようにニュースの中で無駄に多く取り上げている。

 テレビに限れば、視聴率を取れればいいと思っているとしか思えない。それはそうだ。W杯の放映権獲得にはかなりの金額がかかっている。人気に乗っかった間連番組も組んでいる。視聴率が取れなければそれも水の泡だ。だから大会を盛り上げようと各局とも躍起になる。

 監督がジーコになってからこれまでの日本代表の対外試合を見ても、あまりW杯で飛躍しそうなチームには見えなかった。それをマスコミは粉飾して国民に過剰に期待を持たせた。だから格下相手に負けた今回、国民は余計にガックリくるのである。全ての元凶はマスコミにある。マスコミは責任を取ってしかるべきだが、まだまだチャンスはあると言って国民を煽るのを止めようとしない。

 試合に負けた後、日本のスタジアムで応援していた人が肩を落としたり、うつむいていたりする姿を第三者的な見方で見たとき、申し訳ないが面白く感じた。どれほど我々が翻弄されているのかをかいま見たような気がしたからだ。また、試合展開に一喜一憂する姿を見て、ナショナリズムの形成過程を見るような気もした。

 もちろん我が国が勝つことに越したことはないが、完全敗北して国民が目を覚ますのもいいかなとも思う。メディアの思うとおりにさせてはならないのである。メディアに流される国は堕落していくしかないだろう。そんなことを思いながら、あまりW杯に熱中できず(前回大会は熱中できたが)、冷めた目で大会とメディアと世間を眺める今日この頃なのである。

 熱心なサッカーファンの方はこの記事で気分を害されてしまったかもしれないが、これは僕個人の私見であるのでご勘弁いただきたい。4年に1度のW杯を是非心ゆくまで楽しんでください。 

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2006年6月12日 (月曜日)

NHK「日本のこれから」米軍基地編を見て②

 白状しますと、「見ていた」というのは事実とは違います。僕の部屋にはテレビを置いていないので、ラジオで聴いていました(テレビの音声がひろえる機種です)。ですので、議論の盛り上がり方がどれほどか視覚的には全くわかりませんが、雰囲気としては理解しています。相当な白熱ぶりでした。その中でも、一般の参加者の方で、「軍隊(自衛隊・米軍)を日本からなくして見せれば戦争を仕掛けられることはない」と熱心に主張なさる方がいらっしゃったと思いますが(記憶違いならご免なさい)、これに強く反駁を加えたいと思います。

 平和主義者がよく使うロジックだと思います。「軍隊が無ければ戦争は起こせまい。さらには、そうした精神を見せれば、他国はその国を尊敬し侵略などは起きない。また外交努力によって全ての問題が解決できる。」 しかし、このような考え方はあくまで理想に過ぎず、実現可能性は限りなく0に近いと思うのです。

 もし、軍隊をこの日本からなくしたとしましょう。するとどうでしょうか。それに喝采を送る人もいるかもしれません。しかし、それに乗じて攻撃を仕掛けてくる国はないと言い切れるでしょうか。答えはノーです。民間人は当然ながら武器らしいものは持っていませんし、警察力ではどうしようもありません。また外交において、軍隊が無いというのは大きなマイナスでもあります。国際政治では、実際に外交交渉において進展がなかったり、自分に有利でないとき、軍事力を盾に交渉を進めていくというのが大国の間で日常茶飯事的に行われています。この現実を知るべきです。 国際政治学上も、こうしたことが外交の要因の1つとして認められているのです。軍事大国に押し切られてしまう可能性は高いです。

 あまり反駁らしい反駁にはなっていませんが、今回はこの辺でペンを置くことにして、安全保障の問題については、今後深く語っていきたいと思います。それによって、この反駁は完全なものになると考えています。 

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NHK「日本のこれから」米軍基地編を見て

 「日本のこれから」という番組は大好きでよく見るのですが、毎回色々なことを考えさせられます。今回は、米軍基地問題について答えのない熱い討論が行われていましたが、番組の中で、基地の騒音が如何に物凄いものかという実体験もしていました。あんなところに暮らしている人がいるのかと思うと、胸が痛みました。

 米軍基地の大部分は沖縄にあります。沖縄では地域経済に米軍基地が取り込まれているというのもあるのか、基地賛成派もいますが、大部分は反対派と見ていいと思います。

 沖縄県はかなり以前から、基地の縮小や移転を政府に訴えてきましたが、事態は一向に進展しませんでした。当然でしょう。基地の縮小はアメリカとの外交交渉によらねばならず、これまで合意は難しかったことでしょう。また、どの自治体も、新たに基地を受け入れるというのは承服しがたいというのは当たり前です。

 僕は、沖縄が本気で基地を追い出したかったのであれば、政府ではなく国民全体に訴えるべきだったと思います。沖縄県は、人口的にも日本全体の1%程度であり、他の99%が住む自治体が受け入れを容認しがたい以上、「もう少し我慢してくれ」ということになるのは見えていたはずです。ならば、なぜ世論の力を味方につけようとしなかったのでしょう。マスコミは、どれほどの爆音が基地周辺でしていて、住民の健康被害がどれほどのものかということもほとんど取り上げていませんでした。そうした中、沖縄県は政府には陳情に行くけれども、国民全体に対するムーブメントにかけていました。99%には手をつけず、1%の力のみで闘おうとしているのです。それよりも、新聞・雑誌に一面広告を出したり、テレビCMやインターネット広告などを利用して、「私たちはこれほど苦しんでいるのです」「米軍移転・縮小に向けて皆さんの力を貸してください」などと訴えたり、基地に関する問題の啓蒙キャンペーンを起こして、そこでは数知れない沖縄出身の有名人に協力してもらうとか。また基地にほとほとウンザリしているのなら、日米間の条約・規定に基づいて米軍が存在しているのだから「我々沖縄は日本から独立したい」と知事が言えばよかったと思います。本気でする気がなくとも、パフォーマンスとして発言するだけで、政府も真剣に受け止めるし、マスコミも連日取り上げるだろうし、何よりそれによって国民にこの事を考えさせる効果は大きいでしょう。重要なのはプロパガンダです。

 つまり言いたいのは、もはや世論によってしか沖縄の基地問題は解決し得ないということです。世論が高揚すれば、日本政府も大車輪の働きをするかもしれないし、アメリカ政府も、基地問題をもっと真剣に考えてくれることになると思います。怖いのは、国民が無関心になってしまうことです。沖縄県内ですら、基地から離れたところに暮らす若い世代には無関心な人も多いとか。これでは、まるで意味がありません。県内から意識改革をする必要があるようです。

 沖縄はいつまでも被害者意識を引きずっているだけでは駄目です。

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2006年6月 9日 (金曜日)

僕が泣ける曲① IMAGINE

 それまでは趣味で聴く音楽で泣くなどということは考えられなかった僕。これを最初に覆したのは、言わずと知れたJohn Lennonの名曲”IMAGINE”だった。ビートルズにはまってから、それまで耳にしていたジョンの曲をまともに聴くようになった。そして次第に泣けるようになった。この曲のメッセージは周知のものだと思うので解説はするまい。簡潔で、それでいて奥深く、そのために際立っているメッセージ。彼の平和を希求する純粋な想いに触れるたび心を打たれる。僕が理想主義的な思想から現実主義寄りにシフトしたあとも、この曲は変わらず感動を僕にプレゼントしてくれる。今でも反戦歌として受け継がれているこの曲。時代を超えて人々の心を一つにできる曲を書き上げたジョンの業績は偉大であると思う。

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2006年6月 8日 (木曜日)

公務員を軽んずるべからず!

 最近のニュースを見ていますと、公務員の給与や退職金の縮小、あるいは公務員数の純減というように政治が動き、世論の多くもそれに同調しているように思えます。しかし、これは本当によい事なのでしょうか・・・。

 最近の動向をまとめてみますと、3月20日に人事院の研究会が公務員給与との比較対象に民間の中小企業にも広げるべきだ(従業員数100人以上→50人以上)という中間報告をまとめ、人事院はこれに沿って調査し、早ければ今年夏にも給与改定の勧告に反映させる模様。同月27日には、これまで国家公務員に準ずると位置づけられてきた地方公務員給与ですが、各地域の民間給与との均衡を重視すべきだとする最終報告がまとめられ、総務省は2006年度の給与改定から順次、見直しを実施するよう要請するといいます。また、公務員にスト権を含む労働基本権を付与して純減を進めようとする動きもあります。《参考・引用:ヤフーニュース 3月20日、同月27日》 

 私の立場としては、官の効率化、徹底して無駄をなくすという政策には大賛成です。民でも運営可能なものに関しての民間委託など、どんどん進めてもらいたいと思います。構造改革の方向性に関しては賛成なのです。

 しかし、ことに公務員の給与や待遇の話になると、反対せざるを得ません。

 公務員に求められているものは何でしょうか。能力が優秀であることは大前提であると思います。そのため、国も地方もエリート職員採用にはかなり難関といわれる試験を課しているのは周知の事実と思います(もちろんエリートだけに限ったことではないと思います)。

 日本は官僚政治(ビューロクラシー)であるといわれることがありますが、それでも日本が成り立っているのはその官僚がしっかりしているからだと思います。

 では、そんなに優秀な人材はなぜ公務員を選ぶのでしょうか。優秀ならば、民間の一流企業に勤めたり、起業したり、資格を取って開業したりして、公務員以上の収入を得ることは可能なはずです。やはり彼らは、ある程度高い収入があることと、解雇のリスクがないことや、行政にかかわりたいという純粋な想いが動機となって公務員という道を選んでいると思います。

 それなのに、公務員の給与・退職金を減らしては、公務員という仕事の魅力がなくなっていってしまいます。優秀な人材は公務員にはならなくなると思います。ほかの仕事をしたほうがずっと豊かに暮らせるからです。もしもスト権を含む労働基本権を与えて解雇をするようになれば、これは決定的でしょう。そうなれば公務員のメリットはほとんど失われるからです。

 数ばかり見て、人の心理を見ていないこの改革は、めぐりめぐってこの国の将来を危うくしそうでとても心配です。

 公務員にいいイメージを持たない人もいるかもしれません。先日も社会保険庁で不祥事がありましたし、週刊誌では怠惰な公務員の姿の写真を掲載しているものもありました。

 しかし、本当にあんな人たちばかりで行政が成り立っていると思えますか? あの人たちが怠惰な分、影で汗水たらして民のために頑張っている人たちがいるとは思えませんか?

 多くの人に僕の考えに対するご理解を頂けたらと思います。最後に確認のために一言言っておきますが、僕は政治組織や労働者団体とは一切関わりがありません。

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2006年6月 7日 (水曜日)

イメージ英語礼賛

 先日述べたように、speaking能力に英語教育の重点をシフトすることが重要だと考えています。そのための救世主ともいえる存在が「ネイティブの感覚で英語を捉える」という学習法です。具体的には、ネイティブが感じている文法や単語の印象(イメージ)をイラストや動画などによって、感覚的に理解するというものです。

 英語を口に出そうと思っても、細かいニュアンスを伝えようとすると困ってしまいますが、これによって大きく改善できます。たとえば、to不定詞の名詞的用法と動名詞のニュアンスの違い、brightとshineの違いなんかもあっというまに理解でき、適切な表現が見つかるようになります。

 僕がこの英語学習法に出会ったのは、昨年放送されたNHKの「ハートで感じる英文法」(講師:大西泰斗氏)でした(オオニシヒロトと読みます)。講師の大西氏の説明が極めてわかりやすく、長年の疑問が払拭されました。それと同時に、なぜ、学校教育でこのやり方を取り入れてくれないのか、大きな不満を持ちました。講師の先生は違いますが、現在も英語初心者向け(だと思います)に「新感覚☆キーワードで英会話」という、イメージで基礎単語を理解しようという趣旨の番組が提供されています。この考え方は、もはや新時代の潮流といえるでしょう。

 ぜひ、お試しあれ。目からうろこが落ちることと思います。

 ここでは、数ある大西氏の著作の中から、文法的に全体的なことを網羅したものと、単語について書かれたものを紹介します。

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2006年6月 6日 (火曜日)

小学校での英語必修化に物申す!!

 小学校での英語教育を必修化すると中教審が最終決定し、学習指導要領にも必修化を盛り込むという動きがあります。。。

 確かに、人生を振り返っても、学校教育で英語をまともに話せるようになったとは思えません。これは僕だけではないはずです。

 しかし、だからといって、早くから教えればいいという考えは間違っていると思うのです。我々が上手く英語を話せないのは、日本の中学校・高等学校での英語教育がreadingやwriting、hearingにばかり特化し、speakingに重点を置いてこなかったからだと思います(オーラルコミュニケーションという科目が高校のときにありましたが、1年次のみで週1回、しかも内容もかなり緩いものでした。これではやらないのとあまり変わらないなと感じたのを覚えています)。僕は高校が進学校だったこともあるのか、高校卒業時にはある程度のreading、writing、hearing能力は身についたと思います(今ではさび付いてきましたが・・・継続が大事ですね)。今必要なのはこの時期の英語教育のやり方を変えることではないでしょうか。これは各校で現在の取り組み方にばらつきがあるとは思いますが、進学校は受験に無駄なspeakingをなおざりにしがちです。やはり、全国的に「話せる学生」を増やしたいのであれば、指導要領などの根本から変えるべきだと考えます。これによって、授業時間等々の問題が発生してくると思いますが、週休二日制を撤廃すれば話は簡単なのです。長崎の場合、高校では土曜補習を行うことがとても多く、週休二日制はまるで意味を成していません。そもそもゆとり教育の効果があったのかさえ僕には疑問です。

 今進められているような方向で実行に移されると、いろいろな弊害が出て来ることでしょう。石原都知事(だったかな?)がおっしゃっていたように、自国語が定着していない時点で他言語の勉強をするというのは、共倒れになる危険があります。また、週休二日制やゆとり教育の状況下で必修化をすれば、当然他教科の授業時間にしわ寄せがくるわけです。学力低下が叫ばれている中、更なる低下に拍車をかけるのは必定といえるでしょう。親や教育者などのステークホルダーは、もっと声を大にして反対すべきではないでしょうか。(学力低下については、九九が分からない高校生もいると新聞で読んでビックリしたことがあります。登校拒否・引きこもりなどの問題も絡み、事態は深刻かつ複雑です。)個人的に思うのは、小学・中学時代には親や先生はもっと子供に日本の良さや、繊細な感性でしか分からないような日本文学の素晴らしさを伝えてほしいですね。日本語って素晴らしい(なおかつ高度な)言語だと思います。「日本」を理解する。そのあとに世界を(英語を)理解する。これが日本人が日本人たりえる条件だと思います。

 結論としては、現行の中学からの必修のままにし、週休二日制を撤廃して、その分をspeaking能力向上にあてる。またその他の教科にもあてて学力低下を食い止める。小学校での必修化は、これが上手くいかないと確認できるまではするべきではない。と、こういうことになります。

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