2007年9月27日 (木曜日)

なんとなく思うこと

 Yahooで地元のニュースを見ていたら、こんなものを見つけた。

平和省:創立国に呼び掛け、長崎で地球会議12カ国の関係者参加--30日/長崎

9月26日15時0分配信 毎日新聞

 ◇被爆体験談や講演
 平和行政を担当する「平和省」の創設を国に呼び掛ける世界的なプロジェクト「平和省地球会議」が、国内で初めて開かれている。長崎市では30日に開催し、少なくとも12カ国の平和運動関係者が訪れる。
 イラク戦争を受けて米国と英国の市民が設立したネットワーク「グローバルアライアンス」が、05年に英ロンドン、06年にカナダ・ビクトリアで開催し、3回目。日本では、翻訳家のきくちゆみさん=千葉県鴨川市=が代表となり、昨年6月に「平和省プロジェクトJUMP」を設立し、今回の地球会議を主催する。
 会議は21日の千葉県木更津市でのコンサートを皮切りに、来月2日の琉球大学でのシンポジウムまで6カ所で開催。長崎市では30日午後2時から「被爆者の店」で下平作江さん(72)の体験談や、元小学校教諭の山川剛さん(70)が解説する長崎原爆資料館の見学の後、午後6時から県教育文化会館で米国の運動の事務局長、ドット・メイヴァーさんの講演(参加費1000円)がある。
 長崎での会議は大学生のボランティアで運営する。元・高校生平和大使の活水女子大1年、石井美保さん(19)は「戦争をベースにした防衛省とはまた違い、憲法9条の精神を生かして平和をベースに働き掛けていく行政の概念を広く知ってほしい」と話している。【錦織祐一】
〔長崎版〕

9月26日朝刊
 平和省なんて創ったら、ただでさえ火の車の国家予算が余計苦しくなるではないか。どこか一面的な考え方で無責任な気がする。
 さらにいえば、平和省なんてそもそも必要なのか。行政の軸がもう1つ増えるわけで、関係各省の駆け引きも増して全体としての運営が俄然困難になるはずだ。
 それに、記事とは直接関係のないことに言及するかもしれないが、平和だから平穏というわけではないし、国と国が仲良くすればいいなんて単純な考えは甘すぎるだろう。戦争は(僕が知るかぎりほとんどの場合)互いの利害が衝突したときの解決手段の1つに過ぎないのであって、戦争が起きていないときも各国は常に他者同士として様々なところでしのぎを削っている。国連の実態を見てもこのことは明らかだろう。高校生平和大使は何を見て来たのだと言いたい。・・・言い過ぎたかな?
 はっきり言ってしまえば、日本が国家として本当の意味で仲良くすべき相手国は世界中どこを探してもあるわけがない。
 「平和省」を創って何をしたいのかはこの記事からはわからないが、理想という名の幻想に根ざした提案なら、断固願い下げだ。
 このように長崎では思想的に僕と肌が合わないことが時々ある。長崎はいい街なのだが・・・。口にできないことも多いのが困りものだなあ・・・。

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2007年9月12日 (水曜日)

安倍総理辞意表明

 皆様お久しぶりでございます。夏休み・・・長崎で骨休めをしている間、ブログの更新がすっかり滞ってしまい申し訳ありません。では早速記事を書いて参りましょう。

 安倍総理が今日いきなりの辞意表明を行った。今後数日の内に新しい自民党総裁が決定し、総理交代の運びとなろう。

 国会が始まったばかりのこの時点での辞意表明は衝撃的で納得のいくものではないが、もはやあの力を感じられない安倍総理が続けていくよりは交代してもらった方が国民のためかもしれない。

 安倍さんは高邁な理想を掲げて登板したが、結局その多くは果たせずじまいであった。涙目での会見からは無念さがにじみ出ていた。日本の戦後国家体制の転換を謳ったものの、天運からは早くから見放されていた。本当に可哀想な人だ。その一方、高邁な理想が具体性を欠き、国民に訴求できていなかったり、理想の実現に向けての信念が前首相に比べれば希薄な物であるように感じられた。

 小泉さんの呪縛というのはやはり大きかったに違いない。小泉さんの後というのは誰がやってもやりづらいだろう。自身の理想・信条の実現を第一目標とするなら、いっそ、ポスト小泉の次を虎視眈々と狙うべきだったのかもしれない。真っ正直すぎて、したたかさに欠けていた感が否めないのが残念だ。

 何にしても、今更悔やんでも仕方ない。僕はかねてから小沢一郎には総理になってもらいたくないので、彼が失脚するまでは自民党に頑張ってもらいたい。次の自民党リーダーになる人も大変だろうが、早く後継を決定してほしい。

 安倍さん、ものすごく長く感じた1年だったでしょうが、お疲れ様でした。

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2007年6月30日 (土曜日)

中国鰻に発ガン性物質

 全く腹立たしい。憤りを隠せない。中国産の養殖鰻から発ガン性物質が検出されたという。このような事があるから彼の国は好きになれない。成熟の過渡期にあるという論理でも許せる話ではない。調子に乗るな中国! 我々の食卓、殊に鰻に関しては中国産は大きな比重を占めている。加えて鰻やその稚魚の漁獲高は減少している。それだけにこのニュースのインパクトは決して小さくない。大好きな鰻が安心して食べられないのは苦痛以外の何物でもない。

 人の口に入る物に携わる人間は、人の命に携わっていると肝に銘じなければならない。自らの責任を自覚していない業者は、食物に携わる資格はない。

 残念なことに日本にもミートホープのようなふざけた業者が存在するし、資本規模を問わず、発ガン性が疑われる添加物を平気で使用する企業も多い。

 グローバル化が進む中で人の生存と健康を守るためには、国内外を問わず全地球的な不断の努力が必要であることが見えてきた。

 こうした人類の敵は絶対に許さない、必ず怒りの鉄槌を下すという個々人の決意こそが、まずは重要だ。

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内定者の親を囲い込め

 今夜のワールドビジネスサテライトで、企業の内定者・内々定を囲い込む手段として、採用者の親にも自社について説明を行う企業が現れているそうだ。

 どこかで似たような話を聞いた気がした。

 そうだ。アメリカでもそんな事が行われているというのをフジのニュースジャパンで以前放送していた。

 意外な共通点だ。親に反対されて入社を辞退する若者が増えているらしい。

 自立出来ていない若者が増えているということなのだろうか。親に遠慮している若者が増えているのだろうか。過保護な親が増えているのだろうか。はたまた、老後を考えれば子供の収入を確実にしたいということなのだろうか。

 過去にはみられなかったこうした動向が良いことなのか悪いことなのか断ずることは僕には出来ない。

 しかし、仮に若者が小粒になっている結果であるならば由々しい事態だ。

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2007年6月20日 (水曜日)

骨太の方針2007

 骨太の方針2007が発表されたが、内容が各省の持ち寄り色が強いとマスコミは指摘している。安倍政権がこんな状態で参院選はどうなることやら。

 僕が最も疑問に思ったのが「今後5年間で労働生産性(一人当たり時間当たりの生産性)の伸び率の5割増を目指す」という箇所だ。そんなことができるのだろうか。IT化や地域経済の再生、規制改革などによってサービス産業の効率化を図るのだという。効率化は経済の面から見れば有益だが、果たして効率化を追求したところで人々は幸福感を得られるのだろうか。このあたりも気になる。

 骨太の方針2007原文(首相官邸ホームページ)

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2007年6月 7日 (木曜日)

安倍総理の支持率は上方硬直性?

 現職大臣の自殺というショッキングな事態を受け、安倍内閣の支持率が急落したそうだ。

 僕自身は、このニュースを聞いた直後において、同情的に支持率は上がるのではと楽観視していたが、マスコミや野党の総理責任論も影響してか、支持率は下がるという結果になった。

 何故そうなるかといえば、そもそも安倍総理の潜在的な問題となるのだが、「国民に夢を見させるのが下手」だからではないか。

 あまり外見のことを言いたくはないが安倍総理はかっこよくはない。発声も良くないし喋りが上手いともいえない。質問に対する受け答えになんとなく余裕がないようにも感じられる。これだけの条件がそろうと、テレビ画面から人物イメージを掴み取ることに長けた現代人には、元々受けが悪い(と思う)。

 しかも、総理になって打ち出した政策は、憲法の問題や教育の問題などだった。国の根幹に関わる事であるし、今取り組むことは大変結構なことだと個人的には思うが、国民の多くが緊急に望むことではなかった。これは各方面で指摘されているとおりである。

 国民との温度差の原因は、安倍総理が国民に夢や希望を見せることが出来なかったことだ。憲法を変えたら、教育基本法や教育制度を変えたら、日本にどんな素晴らしい事が起こるかという事を、国民に想起させなかったことが大きい。受けが良くない上に訴求することもない。これでは、崇高な目標を掲げて邁進しても、国民からの支持が得られるわけがないではないか。

 「戦後レジームからの脱却」を掲げたことで、マスコミに殊更これが強調されてしまい、「福祉後行型」「国民置き去り」内閣のようなイメージを国民に持たれてしまった。こうした先入観の払拭は大変難しい。

 これらのことから、安倍内閣の支持率にはそもそも「上方硬直性」があると断じざるをえない。

 そうした状況の中で、ここにきて所謂「消えた年金」の問題が発覚し、内閣は危機的状況だ。

 何とも運のない安倍総理だが、少なからず自らが蒔いた種である事を自覚してもらいたい。

 このままの支持率で参院選に突入すると、自民党の惨敗は避けられまい。そうすると、総理交代や、ひょっとすると政界再編もあるかもしれない。

 いやはや、どうなることやら・・・。

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2007年6月 2日 (土曜日)

物質社会の構造的欠陥と人類の破滅

 我々人類はどこへ向かっているのか皆目わからない。

 産業革命、あるいは近代資本主義の勃興以来、我々は欺瞞に満ちた蟻地獄に捕われ、未だに抜け出せずにいる。そして、この事が現代に幾つもの顕著な歪みを生みだし、我々の生存を脅かしている。数十年前に先見の明ある賢人の発した警告も、理解はされたが状況を大きく変える事はなかった。動きだしたうねりに逆らうということは、これほど難しいのだろうか。

 我々は生まれた頃から物質社会の洗礼を受け、この呪縛からは逃れられそうもない。しかし、この物質社会こそが我々を堕落させるばかりか自滅へと追いやる禁断の果実であった。

 物質社会は近代資本主義の賜と言って間違いあるまいが、近代資本主義社会における大量生産・大量消費構造が現代の苦難を招いたのである。

 マクロ経済学の父ケインズは「消費は美徳」と言ったが、これこそがこの社会の問題を指し示すヒントとなる。そう、消費は美徳とされ、豊かさを測る基準として、GDPやGNPがいつのまにか絶対視され(本来は次善策でしかない)、際限なく膨れ上がる消費に応じて人々の労働時間は長くなり、労働効率化が進んで人々から創造的精神を奪い、人口は過剰に集中して都市問題を引き起こし、様々な有限資源を子孫に遺す努力を怠り消耗した挙げ句、温暖化問題でそのしっぺ返しを食らっている。

 これが本当に「豊かな社会」と呼べる代物か。

 資本主義経済自体は悪いシステムではないかもしれないが、運営中に社会が誤った方向へ進みだしても、それを止める手だてが基本的に存在しない。それが市場というシステムだからだ。

 いよいよ現行の資本主義にも内部変革が求められている事がこれから明らかだ。新たな基軸(例えば精神的豊かさを巧く経済に組み込むなど)が導入されるなり、何らかのモデルチェンジが欠かせないと僕は考えている。今までの経済学が現代の問題の根本的解決に貢献していない事を見れば、言い過ぎではない事が理解されよう。

 問題は我々が新たな社会を構築出来るかどうかだが・・・、これは神のみぞ知るところである。だが、実現出来なければ人類は滅亡するしかあるまい。

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2007年3月 2日 (金曜日)

野村の笑点、大和のエビちゃん

 株券を持っていない僕には全くもって関係のない話なのだが(いずれ株を持ちたいのだが)、株券が電子化されるらしい。

 これに伴って最近よく目にするCMは、野村證券の桂歌丸・林家木久蔵・三遊亭楽太郎の笑点でお馴染みの3師匠が出るものと、大和証券のエビちゃんをネタに阿部サダヲやバナナマンら(あと一人の名前を失念した)がコミカルな掛け合いをするものの2つだ。

 初めに見たときからずっと感じているのだが、両社のマーケティングの対象が結構違っていてその違いが見ていて面白い。

 野村の方は、やはり大和よりもターゲットの年齢が高く、メッセージの中身も「株券電子化」の周知とその際の野村の利用の宣伝しているだけで傍目かなりスッキリといているが、大和はバリエーションが複数あり、サービス内容の説明はほぼ皆無。「ライフハーモニー」って一体何? エビちゃん起用による注目度先行で勝負をかける腹積もりらしい。ターゲット層も若者から中年層までを主といている様子。あのCMでは高齢者はよくわからないだろう。

 何となく、この好対照なCMから両社の戦略が透けて見えるところが、僕の心をくすぐったという訳だ。

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2007年2月22日 (木曜日)

PROMSを見て感じたこと

 先日、NHK教育テレビの「芸術劇場」でイギリスで行われる世界最大のクラシック音楽祭、PROMS(プロムス)の最終夜のハイライトが放送されていた。(プロムスについてはwikipediaに詳細明記。この日の曲目等についてはNHK芸術劇場公式ページ内の2007年2月18日の音楽の放送内容へ。)

 恥ずかしながらこの音楽祭のことは全く知らなかったのだが、なんと、このイベントは100を超える会場で行われるという破天荒な規模のもの。メイン会場はビートルズの歌詞にも登場するロイヤルアルバートホール。確かにこれを埋めるのは大変だと思えるほど天井も高く、広い広い会場が音楽を楽しもうという幅広い層の観客で一杯になっていた。その他の会場も映る場面があったが、そこもたくさんのエキサイトした観客で埋め尽くされていた。

 なかなか異色のクラシックコンサートだと感じた。オーケストラが演奏しているというのに、観客は立ち上がってリズムに合わせて膝を曲げ伸ばしたり、曲に合わせてラッパを鳴らしたり。このイベントは音楽を楽しもうとする気持ちさえあればいいようだ。指揮者や演奏者もこういう観客を歓迎している様子。なんというか、会場にとても強いグルーヴ感がある、素晴らしい音楽祭だ。

 

 単純に音楽だけでも楽しめたのだが、僕の心に強烈な印象と感動を与えたことがある。それがこの記事の本題だ。

 音楽祭もいよいよクライマックスというところで、やってきました、イギリスを代表する作曲家・エルガーの行進曲「威風堂々」。ちなみにこれは以前紹介したように僕の大好きな一曲。

 実はこの曲には歌詞も付いていて(詳細はwikipediaで)、観客達は演奏に合わせて「希望と栄光の国」の大合唱を始めた。続くイギリスの事実上の国歌"GOD SAVE THE QUEEN(KING)"(歌詞など詳細はやはりwikipediaで)もまた全員で大合唱。この光景が僕を刺戟した。

 「希望と栄光の国」は帝国主義華やかなりし頃に作詞されたようで、国家を称えつつも、その版図拡大を謳う部分が、現代に生きる僕には少なからざる抵抗があった。しかしながら、「希望と栄光の国」、"GOD SAVE THE QUEEN(KING)"は共に国家を称え、国王を称え、自国の安寧と栄光を願う歌詞であり、荘厳で、勇ましく、威厳をもった曲調とも相まって、僕にはいたく感動的であった。

 そこに集った様々な層の人間全員が全く素直な気持ちから「神よ女王(国王)を守りたまへ」とか「君(女王)に勝利を幸を栄光をたまはせ、御世の長からむことを」と歌っているのだ(和訳の出典はwikipediaの前述の「女王陛下万歳」〈GOD SAVE THE QUEEN(KING)〉欄)。僕は感涙してしまった。

 いやはや何ということだろう。こういったことが日本で起こりうるだろうか。確かにサッカー日本代表の試合などでサポーターが「君が代」歌っていることもある。学校行事などで歌うこともある。けれど、心から自然と湧き出るように「君が代」を歌う人がいるだろうか。その歌詞の意味を正しく理解している日本人はどれほどいようか。

 日本の皇室は現イギリス王室よりも圧倒的に長い歴史を持つにも拘らず、共にその存在は国家のシンボルであり国民統合のシンボルであるにも拘らず、日本とイギリスとの間にこれほどの違いがあって良いのだろうか。僕は悲しくてならない。最近では、天皇不要論を唱える若者や(昔からいたのだろうけれども)、天皇や皇室に最低限の敬意を払うことの出来ない人、ましてや意図的にこれを侮蔑する知識人もいる。僕は大して右派的人間ではないことをここで断っておくけれど、国家として日本を見たとき、その芯となるべきである国民の統一感が薄れてきているのは紛れもない事実ではないだろうか。

 全体主義に陥った戦前あるいは戦中の一時期の教育は恐るべき愚挙であったけれど、国民の思想教育は国家としてきわめて重要だと思う。アメリカなどは、自虐史観などほとんど見られない歴史教育、建国の偉人たちの偉業の数々、星条旗への愛着などの教育が義務教育課程で徹底的に行われていると聞く。これは北朝鮮での話ではない。かのアメリカでの話だ。思想教育というのは国家の統合には必要なことだ。「人種のるつぼ」などと評されるアメリカでは全く当然のごとくこれが不可欠で、国を思う心が国民一人一人にないとあの国は空中分解するのは目に見えている。日本も戦前・戦中の反動で思想教育やそれに準ずることが行われなくなっているが、いいかげん見直すべきである。現在、この国の将来のエリート層で、憂国の志を持つ士はもはや圧倒的に少数である。いわんや、将来の準知識階級ともいえる層も同じくである。さらに、実は歴史的に見ても国家の危急存亡のときの救国の士が準エリート、準々エリートから出ているという事実が、今の日本の実態を実に悲観視させてしまう。その意味では、愛国心をめぐる先の教育改革の方向性は全く間違っていなかった。国民に愛国心のない国に、どうして栄光があろうか。問題は技術的な側面のみだ。

 先日の私的な理想の教育プランに関する記事では、「国民をつくる」作業はもう終えていると書いたが、このコンサートを見た今、精神教育は常に必要であることを痛感している。道州制の議論の中で、教育まで全て地方に丸投げしてしまおうとする動きもあるが、これは大間違いだと思う。やはり、歴史など、国民精神教育は国家が責任をもって監督すべきで、そうでなければ、日本の行く末は暗いものになるかもしれない。

 

 「君が代」も悪くないが、もっと勇ましく歌えるような準国歌のような愛唱歌が生まれないものだろうか。他国のコンサートを見ての感動を、自国で我が身をもって感じてみたいものだ。 

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2007年2月 5日 (月曜日)

教育について考えてみた

 このブログでも教育に関する話題を結構多く取り上げていますが、僕が暫定的に考えている教育制度の理想プランを述べてみたいと思います。

  もはや日本の教育は、文部科学省による護送船団方式では失墜するばかりだと僕は思っています。現場を知らない文科省がいろいろ机上の空論を並べても、その政策が全国に浸透するのには時間が掛かりますし、浸透したところで政策そのものが誤りであれば大変な損害を未来の日本に押し付けてしまうことになりかねません。昨今のゆとり教育の問題化にしても、旧文部省が理念だけ現場に押し付けて、後の責任を丸投げしたことにそもそもの原因があるのです。結果、学校や家庭は適切な手段を講じることを怠ったり遅れたりで、子供たちにただ単に暇な時間を与えるだけのものになってしまいました。空いた時間は塾の時間になって、家庭の教育出費は増すばかりでなく、日本の教育の塾・予備校への依存度は増し、学校教育の空洞化に拍車が掛かりました。また、暇な時間に子供がすることといえば、ゲームに興じることが多く、地域との交流があるわけがありません。

 理念はご立派ですが、無策の愚挙だったと断じざるを得ません。

 国家が行う教育には、「国民をつくる」という大目標があります。それは、母国語を覚えさせたり、共通の価値観を植えつけたりということによって、国としての体をなさせることが必要だからです。明治以来、日本は中央集権的な教育によって均質的な「国民」をつくり出し、その力を結集させることによって西洋列強に肩を並べたばかりか、世界第二位の経済力を持つ国まで上り詰めました。

 もう、均質的な「国民」をつくるという目標は十分に達成されています。そして、21世紀になり、この高度情報化・ボーダレス化の時代の中では、多様性のあるオリジナリティーが求められるようになっています。もはやただ均質的に国民をつくるだけでは日本は国家として生き残ってはいけなくなっています。日本が今世界を席巻している分野を見ればお分かり頂けるでしょう。先端技術やアニメや日本食など、その独自性を世界は評価しています。

 加えて、日本は地域がその活力を取り戻さない限り、日本全体としての活力は生み出せないと僕は感じています。

 これからの日本のテーマは「総力戦」なのです。

 よって、僕は教育に関する権限・財源を地方自治体に大幅に移譲すべきであると考えます。文科省の役割は、教科書検定くらいで十分のように思います。ただし、文科省が口出しできるのは内容に学術的誤りがあったり、歴史観に不都合があったときだけに限定し、教科書のレベルに関しては口を出せないこととします。これは歴史認識等はやはり国家として統一しておくべきでしょうし、以下の論考で示されるように教科書のレベルは幅広いものでなければならないからです。

 6・3・3・4制がいいかどうかは別として、教育期間の制度は当然全国一律です。しかし、教える範囲やカリキュラム、登校日は地方ごとに異なって全く構わないと僕は思います。文科省は義務教育と高校に区切って「義務教育では最低限これだけ、高校では最低限これだけ教えなさい」という目安を示し、あとは各地域の判断で何をどれだけプラスアルファで教えるか、または教えずにほかの学習や総合的学習に向けるかを決定します。高校・大学入試は最低限度範囲からの出題にすれば、他地域への進学でもほとんど不利になることはないでしょう。

 また、地域の小学校・中学校・高校・大学の枠を超えたネットワークづくりもこの先重要です。こうした相互関係を深めていくことによって、教育に一貫性が現れます。また、これらの交流がなされることによって、様々な情報が共有されることで、地域での教育に一体感が生まれ、既存の枠を超えた様々な取り組みに弾みがつくでしょう。

 教育機関同士のネットワークだけでなく、地域企業や地域社会と学校とのコラボレーションも地域力の醸成には欠かせません。

 地域が生き残っていくために必要な人材は、やはり地域が生み出さなくてはなりません。また、地域全体が教育に関わることで、地域に連帯感が生まれ、最近問題となっているいじめや親の問題も少しは解消するのではなかろうかと思います。

 地域に根ざし、いたるところにネットワークを張り巡らすことによって、地域総がかりで教育に取り組み、その結果として地域に活力が還元される。これこそが日本の21世紀の教育に必要な考え方ではないでしょうか。

 そして、各地域で独自教育を施すことによって、地域に差異が生まれます。これを格差と思っては元も子もありません。これは「個性」です。もしこれが地域にとって好ましからざるものならば、他の地域を参考にしつつ調整すればよいのです。こうして、悪い取り組みは改善され、よい取り組みだけが残ることになれば、結果としての日本の人材に多様性が生まれ、国力は増強すると僕は信じています。これはいわば、国家を挙げた壮大な実験なのです。

 

 しかし、これを実行するには少なくとも5~10年の準備期間が必要でしょう。

 まずは、地域の教育委員会を大幅に増員するとともに、実行力のある実務部隊に編成しなおす必要があります。また、教育委員会と現場や地域との風通しをよくする策が必要です。ミニ文科省が乱立したのでは意味がありませんから。小回りの利くスピード感のある組織が必要です。

 具体的に教育プランを練る必要もありますし、学校ごとのシラバスを仕込まなければなりません。地域間の根回しや関係構築も必要です。 

 また、地域住民はこれらの動向に積極的にコミットしなければ、真の成功はありえません。

 何かと混乱が生じそうなプランではありますが、教育に風穴を開けてくれるのは確かです。皆さんはどう思われましたか。

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