なんとなく思うこと
Yahooで地元のニュースを見ていたら、こんなものを見つけた。
平和省:創立国に呼び掛け、長崎で地球会議12カ国の関係者参加--30日/長崎
9月26日15時0分配信 毎日新聞
平和省なんて創ったら、ただでさえ火の車の国家予算が余計苦しくなるではないか。どこか一面的な考え方で無責任な気がする。
さらにいえば、平和省なんてそもそも必要なのか。行政の軸がもう1つ増えるわけで、関係各省の駆け引きも増して全体としての運営が俄然困難になるはずだ。
それに、記事とは直接関係のないことに言及するかもしれないが、平和だから平穏というわけではないし、国と国が仲良くすればいいなんて単純な考えは甘すぎるだろう。戦争は(僕が知るかぎりほとんどの場合)互いの利害が衝突したときの解決手段の1つに過ぎないのであって、戦争が起きていないときも各国は常に他者同士として様々なところでしのぎを削っている。国連の実態を見てもこのことは明らかだろう。高校生平和大使は何を見て来たのだと言いたい。・・・言い過ぎたかな?
はっきり言ってしまえば、日本が国家として本当の意味で仲良くすべき相手国は世界中どこを探してもあるわけがない。
「平和省」を創って何をしたいのかはこの記事からはわからないが、理想という名の幻想に根ざした提案なら、断固願い下げだ。
このように長崎では思想的に僕と肌が合わないことが時々ある。長崎はいい街なのだが・・・。口にできないことも多いのが困りものだなあ・・・。
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コメント
僕は”平和省”という言葉に一抹の不安を覚えます。
平和とはそもそも外交などさまざまな要素の均衡がうまく取れたために発生する”状態”であって、それを作るための省をつくるなどということは、なんとなくお門違いで、平和というものが何なのか冷静な判断に欠いているような気がしてなりません。さらに言えば、”平和省”が平和だと判断すればそれは平和なのでしょうか。彼らは”平和”という永遠の議題を誰かに任せてしまいたいと考えているようにも思えます。
戦争はひとつの国家政策です。しかもそれは時に”ごく一部の人間のリスク”はつりあわないほどのすさまじいリターンをもたらす劇薬となり得るものです。それを使わせないためには市民が国家を監視する必要があるのです。戦争を行う側につくはずの官僚団体に”平和”という市民が持っておくべき意識を預けてしまって戦争勃発を防げる確証があるのでしょうか。私はそれに疑問を唱えます。
平和省というものがどういうものなのかわからない時点で特に言えることは無いのですが、少なくとも無知な私の視点で言えば「何を担当するのか明確でない権力団体は恐ろしいから嫌。」の一言に尽きます。平和という状態の何を担当するのでしょう?やはり不安です。
投稿: Rig | 2007年10月26日 (金曜日) 02時47分
どうもコメントありがとうございます。管理人のSIR-5でございます。
なるほど。Rigさんのおっしゃることはまったくそのとおりだと思います。
平和省についてかるく調べてみたところ、そうした構想が広がっているのは主にどこかと紛争を持っている国が多いようです。間違っていたらごめんなさい。
さて、日本に平和省によって何が変わるのか。
意思決定に混乱をきたすのみではなかろうかと思います。確かに、軍需産業への抑制力など、期待できる面もなくはありませんが、日本のように有事に慣れていない国、総理大臣の権力が小さいくににおいては、存在があだになる局面の損実の方が大きいのではないでしょうか。
今、はっと思ったのですが、長崎の報道って左派ばかりではないですか? そのせいもあって長崎の人って多面的な見方ができないこともあるような気がしてきました。
投稿: SIR-5 | 2007年10月29日 (月曜日) 14時28分