教育について考えてみた
このブログでも教育に関する話題を結構多く取り上げていますが、僕が暫定的に考えている教育制度の理想プランを述べてみたいと思います。
もはや日本の教育は、文部科学省による護送船団方式では失墜するばかりだと僕は思っています。現場を知らない文科省がいろいろ机上の空論を並べても、その政策が全国に浸透するのには時間が掛かりますし、浸透したところで政策そのものが誤りであれば大変な損害を未来の日本に押し付けてしまうことになりかねません。昨今のゆとり教育の問題化にしても、旧文部省が理念だけ現場に押し付けて、後の責任を丸投げしたことにそもそもの原因があるのです。結果、学校や家庭は適切な手段を講じることを怠ったり遅れたりで、子供たちにただ単に暇な時間を与えるだけのものになってしまいました。空いた時間は塾の時間になって、家庭の教育出費は増すばかりでなく、日本の教育の塾・予備校への依存度は増し、学校教育の空洞化に拍車が掛かりました。また、暇な時間に子供がすることといえば、ゲームに興じることが多く、地域との交流があるわけがありません。
理念はご立派ですが、無策の愚挙だったと断じざるを得ません。
国家が行う教育には、「国民をつくる」という大目標があります。それは、母国語を覚えさせたり、共通の価値観を植えつけたりということによって、国としての体をなさせることが必要だからです。明治以来、日本は中央集権的な教育によって均質的な「国民」をつくり出し、その力を結集させることによって西洋列強に肩を並べたばかりか、世界第二位の経済力を持つ国まで上り詰めました。
もう、均質的な「国民」をつくるという目標は十分に達成されています。そして、21世紀になり、この高度情報化・ボーダレス化の時代の中では、多様性のあるオリジナリティーが求められるようになっています。もはやただ均質的に国民をつくるだけでは日本は国家として生き残ってはいけなくなっています。日本が今世界を席巻している分野を見ればお分かり頂けるでしょう。先端技術やアニメや日本食など、その独自性を世界は評価しています。
加えて、日本は地域がその活力を取り戻さない限り、日本全体としての活力は生み出せないと僕は感じています。
これからの日本のテーマは「総力戦」なのです。
よって、僕は教育に関する権限・財源を地方自治体に大幅に移譲すべきであると考えます。文科省の役割は、教科書検定くらいで十分のように思います。ただし、文科省が口出しできるのは内容に学術的誤りがあったり、歴史観に不都合があったときだけに限定し、教科書のレベルに関しては口を出せないこととします。これは歴史認識等はやはり国家として統一しておくべきでしょうし、以下の論考で示されるように教科書のレベルは幅広いものでなければならないからです。
6・3・3・4制がいいかどうかは別として、教育期間の制度は当然全国一律です。しかし、教える範囲やカリキュラム、登校日は地方ごとに異なって全く構わないと僕は思います。文科省は義務教育と高校に区切って「義務教育では最低限これだけ、高校では最低限これだけ教えなさい」という目安を示し、あとは各地域の判断で何をどれだけプラスアルファで教えるか、または教えずにほかの学習や総合的学習に向けるかを決定します。高校・大学入試は最低限度範囲からの出題にすれば、他地域への進学でもほとんど不利になることはないでしょう。
また、地域の小学校・中学校・高校・大学の枠を超えたネットワークづくりもこの先重要です。こうした相互関係を深めていくことによって、教育に一貫性が現れます。また、これらの交流がなされることによって、様々な情報が共有されることで、地域での教育に一体感が生まれ、既存の枠を超えた様々な取り組みに弾みがつくでしょう。
教育機関同士のネットワークだけでなく、地域企業や地域社会と学校とのコラボレーションも地域力の醸成には欠かせません。
地域が生き残っていくために必要な人材は、やはり地域が生み出さなくてはなりません。また、地域全体が教育に関わることで、地域に連帯感が生まれ、最近問題となっているいじめや親の問題も少しは解消するのではなかろうかと思います。
地域に根ざし、いたるところにネットワークを張り巡らすことによって、地域総がかりで教育に取り組み、その結果として地域に活力が還元される。これこそが日本の21世紀の教育に必要な考え方ではないでしょうか。
そして、各地域で独自教育を施すことによって、地域に差異が生まれます。これを格差と思っては元も子もありません。これは「個性」です。もしこれが地域にとって好ましからざるものならば、他の地域を参考にしつつ調整すればよいのです。こうして、悪い取り組みは改善され、よい取り組みだけが残ることになれば、結果としての日本の人材に多様性が生まれ、国力は増強すると僕は信じています。これはいわば、国家を挙げた壮大な実験なのです。
しかし、これを実行するには少なくとも5~10年の準備期間が必要でしょう。
まずは、地域の教育委員会を大幅に増員するとともに、実行力のある実務部隊に編成しなおす必要があります。また、教育委員会と現場や地域との風通しをよくする策が必要です。ミニ文科省が乱立したのでは意味がありませんから。小回りの利くスピード感のある組織が必要です。
具体的に教育プランを練る必要もありますし、学校ごとのシラバスを仕込まなければなりません。地域間の根回しや関係構築も必要です。
また、地域住民はこれらの動向に積極的にコミットしなければ、真の成功はありえません。
何かと混乱が生じそうなプランではありますが、教育に風穴を開けてくれるのは確かです。皆さんはどう思われましたか。
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コメント
教育体制の問題指摘は同感です。
しかし、地域に主体を移すことには疑問です。現状の問題を解決する答えにはなりません。それは、地方行政は腐敗している。談合発注、公金不正使用、警察の裏金を見れば明らか。教育委員会の骨抜き状態。日教組等の組合に振り回されている教育行政。教員の人事。とても教育を地域に任せる状況ではありません。やはり、教育の目的を再認識するところからスタートすべきだと思います。有名校に進学するためですか?一流企業に就職するための教育ですか?社会も教育に対する責任を持たなければなりません。大工、左官、自動車工でも大きな収入になるよう格差を解消することが大事と考えます。そうすれば、受験以外の教育の重要性が明らかになります。
投稿: yumemari | 2007年3月10日 (土曜日) 07時29分
コメントありがとうございます。
僕は少なくとも義務教育の最大の目的は「日本国民」を作り出すことにあると考えています。読み書きそろばん、我が国の成り立ち、社会の仕組み、そういったものを最低限理解する。それより先の、高校・大学は専門的なことを学んでいくためにあります。そもそも、大学に就職のために入学するというような姑息な考えの人が多いのが問題なのです。純粋な学問の塔であるはずの大学の失墜ぶりたるや、目も当てられません。大学がイコール職業学校となってはいけないのです。
地方政治に懐疑心をお持ちのようですが、中央に任せきりにしているのも問題ではないでしょうか。そもそも、公務員は公務員自身が選考しているからいかんのですね。どこかで市民が選考に加わる仕組みを作らないと、公務員は公僕であるという自覚が喪失している人が後を絶たないでしょう。
>大工、左官、自動車工でも大きな収入になるよう格差を解消することが大事と考えます
僕は、そうするよりも、大学入試自体が、無くなるか、簡素化されることで問題の大半が解決するように思います。アメリカのように進級・卒業の単位認定が極めて厳しいものになって、大学に入ったけれど出られない人が続出すれば、大学教育にかける学生の思いも変わり、ひいてはご指摘のような職人さんへの格差というか、偏見も解消されるのではないですか?
投稿: SIR-5 | 2007年3月10日 (土曜日) 15時34分