小学校での英語必修化に物申す!!
小学校での英語教育を必修化すると中教審が最終決定し、学習指導要領にも必修化を盛り込むという動きがあります。。。
確かに、人生を振り返っても、学校教育で英語をまともに話せるようになったとは思えません。これは僕だけではないはずです。
しかし、だからといって、早くから教えればいいという考えは間違っていると思うのです。我々が上手く英語を話せないのは、日本の中学校・高等学校での英語教育がreadingやwriting、hearingにばかり特化し、speakingに重点を置いてこなかったからだと思います(オーラルコミュニケーションという科目が高校のときにありましたが、1年次のみで週1回、しかも内容もかなり緩いものでした。これではやらないのとあまり変わらないなと感じたのを覚えています)。僕は高校が進学校だったこともあるのか、高校卒業時にはある程度のreading、writing、hearing能力は身についたと思います(今ではさび付いてきましたが・・・継続が大事ですね)。今必要なのはこの時期の英語教育のやり方を変えることではないでしょうか。これは各校で現在の取り組み方にばらつきがあるとは思いますが、進学校は受験に無駄なspeakingをなおざりにしがちです。やはり、全国的に「話せる学生」を増やしたいのであれば、指導要領などの根本から変えるべきだと考えます。これによって、授業時間等々の問題が発生してくると思いますが、週休二日制を撤廃すれば話は簡単なのです。長崎の場合、高校では土曜補習を行うことがとても多く、週休二日制はまるで意味を成していません。そもそもゆとり教育の効果があったのかさえ僕には疑問です。
今進められているような方向で実行に移されると、いろいろな弊害が出て来ることでしょう。石原都知事(だったかな?)がおっしゃっていたように、自国語が定着していない時点で他言語の勉強をするというのは、共倒れになる危険があります。また、週休二日制やゆとり教育の状況下で必修化をすれば、当然他教科の授業時間にしわ寄せがくるわけです。学力低下が叫ばれている中、更なる低下に拍車をかけるのは必定といえるでしょう。親や教育者などのステークホルダーは、もっと声を大にして反対すべきではないでしょうか。(学力低下については、九九が分からない高校生もいると新聞で読んでビックリしたことがあります。登校拒否・引きこもりなどの問題も絡み、事態は深刻かつ複雑です。)個人的に思うのは、小学・中学時代には親や先生はもっと子供に日本の良さや、繊細な感性でしか分からないような日本文学の素晴らしさを伝えてほしいですね。日本語って素晴らしい(なおかつ高度な)言語だと思います。「日本」を理解する。そのあとに世界を(英語を)理解する。これが日本人が日本人たりえる条件だと思います。
結論としては、現行の中学からの必修のままにし、週休二日制を撤廃して、その分をspeaking能力向上にあてる。またその他の教科にもあてて学力低下を食い止める。小学校での必修化は、これが上手くいかないと確認できるまではするべきではない。と、こういうことになります。
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コメント
お説には賛成ですが、以下の箇所は不同意です。
>我々が上手く英語を話せないのは、日本の中学校・高等学校での英語教育がreadingやwriting、hearingにばかり特化し、speakingに重点を置いてこなかったからだと思います
私の高校時代は教室で Tennyson, Maugham, Howthorne の購読がありました。最近はないでしょう。従って今の若い世代はリーディング能力がありません。英語というものは読めれば、書け、書ければ話せます。しかし「聴く、話す」には長年の訓練が必要です。それを身につけるのは学校卒業後の努力、経験の蓄積です。読めなければ,つまり学術文献、特許、契約書、仕様書等の読解力などの能力がなければ「英語で」仕事は出来ません。英語で仕事が出来るようになれば、ごく自然に英語が聞こえてきて、かつ話せるようになります。まず大切なことは仕事が出来ること、英語はあとから付いてきます。
投稿: 50名山 | 2006年9月 5日 (火曜日) 00時50分
コメントありがとうございます。
申し訳ありませんが、Tennyson, Maugham, Howthorneと言われても何のことかわかりませんでした。貴方はおいくつぐらいのお方ですか。また、出身校はどのようなところでしょうか。それによって、僕の反応が変わります。
もし、貴方の学生時代が20年以上前のことで、ご出身が一般的な高校だとすると、我が国の英語教育は残念ながらかなり様変わりしてしまったといえます。
また、世代が上の方のリーディング能力と我々の世代の能力の差というのも、僕にはわかりません。
しかし、多くの日本人が心配しているのは、日本の若者が英語圏の小学生レベルの会話ですらままならないという状況なのではないでしょうか。文法や、単語を理解できても、英作文ができても、当意即妙の会話についていけない。これはやはり、リーディング能力の不足と言うよりも、コミュニケーションとしての英語力の不足から来るものと見るべきなのではないでしょうか。
思うに、僕がここで論じたspeaking能力より、貴方のお考えのspeaking能力の方が程度が高いのではないでしょうか。
投稿: SIR-5 | 2006年9月 5日 (火曜日) 01時49分
speaking云々と云われますが、一体何を話すのですか。会話というものは話したい内的浴欲求があって始めて可能なもの。学校で教えられるものではありません。しかも現在高校段階で履修単語数が2,300語、これは英米の3歳児程度、小学生レベルの会話さえできないのは当然です。かかる事実を知らずに「当為即妙の会話」などを夢見るのははなはだ滑稽です。英語が話せるようにと英会話学校に行くのも無駄です。英会話学校は会話を習いに行くところではなく、自分の英語がどれだけネイティヴに通ずるか確認するところです。
英語をモノにしたければ若い間はreadingに励むこと。そのために文法を身につけこまめに辞書を引く、それしかありません。読んで理解できないものは、聴いても分かりませんし、書くことも、話すこともできません。そのためにはたゆまぬ努力が必要です。自分の努力不足を教育カリキュラムのせいにする論者をよく見かけますが全くの見当はずれです。「会話」などは10,000語レベル(英米の小学6年生生程度)に達してようやく道が開けるようになります。もっとも90%以上の英語学習者はそのはるか手前で挫折します。
ついでに云いますと日本人にり英語と云うものはそれが仕事に役立つレベルになって始めて意味があります。語彙数で云えば20,000語レベル(英米の大学生レベル)、前途は実に遼遠です。
片言の「会話」などができてもなんの役にもたちません。
あと一言、私の議論と私の「出身校」や「年齢」など何の関係もないことを付け加えておきます。
投稿: 50名山 | 2006年9月19日 (火曜日) 01時03分
50名山様、お久しぶりです。コメントありがとうございます。ただ、御年齢は是非知りたいところでしたので、お教えいただけず残念です。
>片言の「会話」などができてもなんの役にもたちません。
これは少し言い過ぎなのではと思いました。実社会に出た者ではないのでよくわからないのですが、貴方のおっしゃるように2万語レベルまで身に付けない限り、英語でのお仕事は出来ないのですか。また、貴方は、英語で仕事が出来なければ、ごく自然に英語が聞こえてきてかつ話せるようにはならないという趣旨のコメントを以前お残しになっています。論理としては一貫されていますが、果たして英語という言語でのコミュニケーションの敷居はそれほどまでに高いものなのですか。
これほどまでに高いのであれば、日本における英語教育はあまり意味を成していないことになります。我々の受けている英語教育とは、一体何なのでしょう。貴方のコメントの読後は、日本人は他の教科を強化した方が賢明のようにも感じます。
それほどまでにハードルの高い貴方が、日本の今日の英語教育に不満を持っておられないわけはないと推察いたしますが、いかがでしょう。御説では、ほとんどを自己努力という形で投げ出していることになる我が国の英語教育はどうあるべきとお思いですか。90%も挫折するという状況を如何に解消すべきでしょうか。
恐らく貴方は、readingテキストを読めとおっしゃるでしょう。しかし、英語学習者の多くがぶち当たる壁として、「会話」があります。英語は言語として存在するわけですから、基本的には話されてこそ意味がある物です。しかし、我々は英語を口に出すのをためらいます。授業中でも、ネイティブのような発音が出来る生徒であったとしても、発表では日本語的な朗読に徹する人がいます。これは何故か。思うに、英語を話す機会が無いからでしょう。恥をかくのを恐れてしまうのです。これは当然です。最近は発音記号さえ教育の現場では教えないのですから。我々は自信を付ける「場」が必要なのです。それを手っ取り早く提供できるのが公的教育ではないでしょうか。
故に、僕は英語教育においてspeaking能力の強化が必要と思います。片言でもいいではないですか。外人と少しでも会話を交わすことが出来れば、それが自信となり、学習意欲も増すでしょうし、会話こそが英語教育の根幹のようにも思うのです。readingの一本槍では、この辺りのところで弊害が起きるような感じがしてなりません。
追伸:事実、昨日僕は”Your fly is open.”という文を覚えてとても面白かったのです。readingテキストにはこんな言葉出てきませんから、新鮮でした。
投稿: SIR-5 | 2006年9月19日 (火曜日) 02時21分
英語で仕事をする上での必要語彙数は勿論仕事の種類によります。いかがわしい仕事なら英語など話せなくても出来ますし、単純労働やバイトなら片言でも出来ます。ロンドンやロサンゼルスに行ってみれば「語学留学」してみたもののドロップアウトして、日本に帰るに帰られず、ファストフード店にたむろしている日本の若者がいっぱいいます。20,000語というのは英語を手段として国際社会で活躍しようとする若者が目指すレベルで、あなたがそのような青年であることを期待します。
かようなレベルに達してこそ英語を学習する価値があるのです。その気持ちがないのなら英語など学ぶ必要はありません。実際大部分の日本人はそのレベルに達しない、あるいは達する必要がありません。従って時間、お金、エネルギーの無駄です。私は小学校での英語教育には反対ですが、さらに云えば中学校以降の英語科も選択制にすべきだと考えています。要するに必要な人が学習すればよいのです。勿論入試科目からも除外します。
なぜなら英語は高等教育を履修する上の手段であって目的ではないからです。外国人力士にとっての日本語と同じです。
英語を話す場合何が障害となるか、1)grammer、2)vocabulary、3)collocation、4)wording、5)idiom でしょう。
すぐ発音などという人がいますが、英語を話す上でたいした問題ではありません。国それぞれに訛がありますし、英語圏でも同様です。
英語を話せるようになりたければ実践あるのみです。それには話す内容がなければなりません。
そして話す内容は日本語でしか身に付きません。
おわりに:
"Your fly is open"のような表現はペーパーバッグを読めばいくらでも出てきます。ただし真面目な議論の最中に引用する語句ではありません。
貴方の誠実さが疑われますから控えられた方がよろしいかと。
投稿: 50名山 | 2006年9月22日 (金曜日) 16時10分
コメントありがとうございます。返信が遅れてすみません。京都に行っていたもので。
僕の前回のコメントの最後のくだりに関してのご忠告ありがとうございます。あれは、貴方へのコメントを書き上げた後、その場の思いつきで書き足したものです。その場の勢いですね。今更削除するのは逆に誠実ではないと思いますので、このままにしておきます。ただ、ああいう類の表現を見つけると何となく英語が面白く感じるのです。身近に迫ってくる感じですね。嬉しさのあまりの行動でした。もし不興をかってしまったのなら申し訳ありません。
英語教育が無駄と言い切るのはいささか極論過ぎるような気がします。英語のような他言語の理解があってこそ、母国語の構造などの理解も増すと思えるので。
僕も貴方のおっしゃるように、文法の理解が最も重要だと思います。これがわからないと先に進めませんから。発音が一番先とは言っていません。しかし、近年の学校教育においては前回も述べたようにまともに発音記号を教えませんし、生徒も理解していません。少なくとも僕が卒業した学校では。発音もわからないで、どうして英語が読めますでしょうか。文法を理解していく上でも大事になってくるとも思うのですが。細かいところはさておき、重要な部分を早い段階で身に付けることが大事ではないでしょうか。
もし仮に貴方のおっしゃる様に、英語教育を選択化したとして、公的な教育ではどこまで踏み込んだことを教えられるとお考えですか。
また、貴方は実践あるのみとおっしゃいますが、どこで実践を積めばよいのですか。学校教育はこの点で重要な拠点であると思います。独力で全てやれというのは乱暴ですし、時間や予算の上で学習が難しくなる人も出てくるでしょう。学習したくてもできない人が出て、英語との距離がますます広がってしまうのではなかろうかという懸念が生じます。選択制にしても英語を取っていなかった人は、その後に学習を望んでも一からということになるので、結局全体としてはデメリットのほうが大きいのではないでしょうか。
投稿: SIR-5 | 2006年9月25日 (月曜日) 12時54分
貴方の議論を読ませていただきますと、英語を学習面からしか捉えておらず、実際に使用されている場からの考察がありません。英語は我々日本人にとっては手段、また英語学習も英語を職業や生活に活用するための手段に過ぎないのに、英語あるいは英語学習が目的になっている、かような倒錯した現状が日本人の英語についての考えの実に奇妙なところです。
英語は実地に使用してナンボの世界です。英語を使用する目的や必要性がないのに学習してもあまり意味はありません。従ってそのような方は英語の学習はやめるべきで、他にいくらでもしなければならないことがあるでしょう。
英語にかぎらず中学、高校での学習は単なる手ほどき。それ以上の意味はありません。手ほどきを受けたら後は自助努力あるのみ。その中で例えば外国語を読み、書き、聴き、話すことにより所要の目的を実現すること求められます。そしてそれを行った人だけが外国語をものに出来ます。
このことは単に外国語だけでなく全ての学習について云えることです。学校で習うことなど、その後の人生で学ぶべきことに比べれば取るに足りません。人生はすべからく勉強、誰も教えてくれず、自分で学ぶ以外方法はありません。
かかる実践を積む場は学問や職業を通して自ら選択するもの。外国語学習のためにかかる場を求めるのは手段と目的を取り違えています。いわば外国人が「日本語が話せるようになるために相撲部屋に入門」するようなもの、実際は相撲に精進すれば日本語が話せるようになるのです。
二三追加コメントを。発音記号ですが、最近は教えないようですし、難発音語を除いて付記しない辞書も増えています。理由は明確で、録音機材等の発展によりいくらでも模範発音が聞ける時代にはあまり意味はないでしょう。
また「学習したくても出来ない人」など今の世にはいません。外国語だっていくらでも学べます。金もかかりません。要はやる気があるか否か、それが全てです。
投稿: 50名山 | 2006年10月 2日 (月曜日) 20時38分
50名山様、再びのコメントありがとうございます。では早速お答えしてまいります。
>英語を学習面からしか捉えておらず、実際に使用されている場からの考察がありません。
確かにそうかもしれません。実際に使用した経験が浅いもので。これは反省要因ではあるでしょう。ご指摘ありがとうございます。
>英語は実地に使用してナンボの世界です。英語を使用する目的や必要性がないのに学習してもあまり意味はありません。従ってそのような方は英語の学習はやめるべきで、他にいくらでもしなければならないことがあるでしょう。
うーん、これは言い過ぎではないでしょうか。50名山さんはかねてから学校教育での英語学習選択制を唱えておられますが、全体に等しく外国語にふれる機会を与えるということ自体に間違いはないと思うのですが。
>英語にかぎらず中学、高校での学習は単なる手ほどき。(中略)手ほどきを受けたら後は自助努力あるのみ。
それはそうでしょうが、自助努力でできる限界があると思うのです。やはり、英会話学校に通うなり教材を買うなり何なりしていかなくてはならないのではないですか? 公的教育で踏み込んでくれたらこれに越したことはないと思ってしまいます。
>かかる実践を積む場は学問や職業を通して自ら選択するもの。外国語学習のためにかかる場を求めるのは手段と目的を取り違えています。
手厳しいですね。しかし、貴方の御反論が正しいものだとは思えないのですが。貴方はこのやり方で成功なさったかもしれませんが、そうでない人もいらっしゃるのでは? 学習には方法が適宜適切に存在してしかるべきで、貴方の「手段と目的を取り違えている」という反駁は申し訳ありませんが中々受け入れられません。
>発音記号ですが、最近は教えないようですし、難発音語を除いて付記しない辞書も増えています。理由は明確で、録音機材等の発展によりいくらでも模範発音が聞ける時代にはあまり意味はないでしょう。
そうはいっても、発音記号はまだまだ重要だと思いますよ。視覚的に理解ができますから。初学者にとっては、またそうでなくても、発音を聴き取るのが難しい時が必ずあります。そんな時、発音記号は便利ですし、しょっちゅう模範発音を確認する程こまめな学習者は少ないのでは?(学生に限ったことですが。) 間違った発音が定着してしまうのを防ぐためにも、発音記号を覚えるのはまだまだ重要ではないでしょうか。
>また「学習したくても出来ない人」など今の世にはいません。外国語だっていくらでも学べます。金もかかりません。要はやる気があるか否か、それが全てです。
金のかからない学習などこの世にないと思うのですが。程度問題ではありますが。どの程度の出費を浮かべて、かからないとおっしゃるのですか?
投稿: SIR-5 | 2006年10月 3日 (火曜日) 12時53分
貴方とのやりとりはなななか面白いので続けます。
>全体にひとしく外国語に触れる---。
一通りの手ほどき段階、義務教育である中学校段階ではそうでしょうね。後は自分自身で進路を選ぶべきでしょう。
>英会話学校に通うなり教材を買うなり何なりしていかなくてはならないのではないですか?
それも自助努力に入りますが、あまり過大な期待を持つべきではありません。私の経験では英会話学校は「英会話を習うところ」ではなく、「自分の英語がどれだけ英米人に通用するかを確認する」場なのです。
>学習には方法が適宜適切に存在してしかるべきで---、
手ほどき段階をすぎれば、英語は学習するものではなく身につけてゆくものなのです。そのためには、「英語を」ではなく、何かを「英語で」学ぶことがポイントです。ここのところを勘違いしている人が実に多い。いわゆる「英語に幻想を抱く人」、極端な例は「英語フェチ」です。英語が出来ても商社マンにはなれません。商社マンとしての仕事ぶりが認められて海外担当になり、そのあと必要な英語を身につけていくのです。このようなプロセスは全ての職業に当てはまります。このように「英語が実際に使用される場」から切り離された形で英語を学習し、仮に英検1級レベルに達したとしても英会語学校の教師以外ほとんど何の役にも立たないでしょう。例えば通訳などはとてもできません。逆に商社マンの中にはひどい英語を話している人も多いですが、現実に業績を挙げていれば全く問題はありません。
>発音記号はまだまだ重要だと思いますよ
昔は視覚的に英語を学ぶ以外方法はありませんでしたが今は違います。私が使用しているNHKのラジオテキストにも記載されていません。直接耳で覚えよと云うことです。
>金のかからない学習など --- 程度問題ではありますが。
私の外国語学習法はNHKのラジオ放送(テキスト代350円/月)だけ、最近はインターネットでも外国語放送が聞けます(これは実際上無料)。あとは仕事や通訳クラブ(会費1,000円/月)その他での実地使用が全てです。なにも高い金をだして何年も英会話学校に通ったり、海外に語学留学したり、高価な幼児用学習教材などを子供に買い与える必要はないと云うことです。
投稿: 50名山 | 2006年10月 3日 (火曜日) 23時17分
素早いお返事ありがとうございます。では早速本題に入ります。
>一通りの手ほどき段階、義務教育である中学校段階ではそう(全体に等しく外国語にふれる機会を与えるということ自体に間違いはない)でしょうね。
揚げ足を取るようで申し訳ないのですが、貴方はこれ以前のコメントでは、中学から外国語教育を履修するかしないかを選択制にすべきだと述べておられますので、理論矛盾が起きていると考えます。貴方のお考えはどちらなのですか?
>それ(英会話学校に通うなり教材を買うなり何なりすること)も自助努力に入りますが、あまり過大な期待を持つべきではありません。私の経験では英会話学校は「英会話を習うところ」ではなく、「自分の英語がどれだけ英米人に通用するかを確認する」場なのです。
以前にも同じような事を述べておられますので、貴方の英会話学校に対するスタンスは承知しました。そのような人もいらっしゃるでしょうし、そうあってもよいと思います。
貴方の御主張は、要するに実践で練磨を重ねないと英語は身に付かないということでしょう。これは一理ある話だと思います。しかし、このような機会を得ることは誰しもできるわけではないと思いますし、費用面でも覚悟がいると思います。すなわち、英語学習には、機会の格差と所得の格差が存在していることになります。それでよいのですか? 仕事等での必要に迫られる前に、英語を身につけておきたいと思う人は多いと思うのですが、この人たちは切り捨てられてしまうのでしょうか。
>私の外国語学習法はNHKのラジオ放送(テキスト代350円/月)だけ、最近はインターネットでも外国語放送が聞けます(これは実際上無料)。あとは仕事や通訳クラブ(会費1,000円/月)その他での実地使用が全てです。
あ、貴方もNHKラジオですか。お仲間ですね。さっき僕は費用面の問題を挙げましたが、全ての人が貴方のようなもので済むのなら、意外と安くで収まるもののようではあります。しかし、NHKでは役不足なのでは? 貴方のおっしゃるような非常に高いハードルをクリアしている講座だとは思えません。それと、通訳クラブとは何でしょうか? 勉強不足で申し訳ありませんが、お教えいただければ幸いです。
>昔は(発音記号で)視覚的に英語を学ぶ以外方法はありませんでしたが今は違います。私が使用しているNHKのラジオテキストにも(発音記号は)記載されていません。直接耳で覚えよと云うことです。
確かに僕が使用しているテキストにも載っていません。しかし僕はほとんど困りません。それは、今では大体の発音は聴いてわかるし、わからないとしても、気になる場合は電子辞書で記号を確認したり、実際に発音を聞いたりするからです。しかしながら、繰り返しになりますが、初学者には発音を聴き取る耳はないと思います。また、実際に声に出すときも、気をつけるべき点が感覚だけでなく、頭で理解することができるので、未だに必要な存在であると考えるのですが。
投稿: SIR-5 | 2006年10月 4日 (水曜日) 12時10分
>揚げ足を取るようで申し訳ないのですが---
別に矛盾はありません。機会さえ与えられない(英語教育を受けたくても受けられない)のは問題ですが、機会が与えられば、それを選択するかしないかは学習する側の自由です。
>このような機会を得ることは誰しもできるわけではないと
かかる機会は自ら求めるもの、そのような努力をしない人は、英語を習得する必要がなく勉強など無駄と云うことです。趣味でするのは勝手ですが。
>仕事等での必要に迫られる前に、英語を身につけておきたいと思う人は多いと思うのですが---
そのような方法では役に立つ英語は身に付かないと云うのが私の主張です。前回の投稿で商社マンの例を挙げましたね。英語をいくら勉強したって商談は出来ません。英文で仕様書、特許、論文を書くことは出来ません。つまりあまり実際の役にはたたないということです。
>NHKでは役不足なのでは? 貴方のおっしゃるような非常に高いハードルをクリアしている講座だとは思えません
ラジオ講座をバカにされているようですが、見当違いも甚だしいですね。英語は不断のトレーニングが肝要。イチローや松井だって毎日素振りやランニングを欠かさないのですよ。
>通訳クラブとは---
英語は実地に使わない限り身に付きません。そのためには大学や企業で実際に英語で仕事をするのが一番ですが、学生などでかかる場がない人は通訳募集に応ずる方法があります。募集する団体はさまざま。政府機関(国際観光振興機構、国際効力機構など)、地方自治体、国際スポーツ団体、各地の国際交流センター、国際交流協会、NPOなど。もっとも登録したとてすぐに仕事の依頼があるわけではなく、実績を積まねばなりません。ここで私が通訳クラブと云っているのはかかる登録者がつくる団体をさしています。仕事のレベルはそれこそピンは法廷通訳からキリは国際スポーツ大会の会場整理まで様々です。
いずれにせよ責任を負う仕事ですから、生半可な態度ではつとまりません。英語で仕事が出来るようになるためには結局かかる経験をどれだけ積んだかで決まります。
投稿: 50 | 2006年10月 4日 (水曜日) 21時48分
コメントありがとうございます。では早速。
>機会が与えられば、それを選択するかしないかは学習する側の自由です。
それはその通りですが、まだ12歳ぐらいの子が自分の将来を見据えて選択をする能力があるのでしょうか。大部分はないでしょう。それ故、義務教育として一律的に英語教育を施すのは有意義であると思います。
>ラジオ講座をバカにされているようですが、見当違いも甚だしいですね。
決して馬鹿にはしておりません。実際僕もテキストを買って聴いているわけですから。しかし、実践こそ肝要と声高におっしゃってきた貴方にとって、それで事足りるのかと思ったわけです。誠に主観的な印象によるものですが、貴方ほどの方なら、もっと難解なもので鍛錬なさっているような気がしたもので。まぁしかし、ここで仮にNHKのレベルが低いとしても、通訳クラブに通っておられるわけですから万事OKなのでしょうね。因みに今聴いていらっしゃるのはどの講座ですか? ビジネス英会話ですか?
貴方のコメント全般にわたる貴方の御主張によると、日本人が役に立つ英語(貴方にとって役に立つというのは、商談をするとか論文を書くとか、それこそトップレベルですね)を身に着けるためには、非常にスパルタ的な方法をとらざるを得ないようですね。そしてそれには相当な覚悟も必要である。それはそうだと思います。このような人達は、まさに貴方のおっしゃるような日常的に英語を必要とする人たちです。
しかし、ここで学校教育としての英語の位置づけを考えたいと思います。以前のコメントに遡りますが、貴方は英語を(将来的にも)必要としない人が英語を学ぶということが無駄である旨をおっしゃいました。しかし、学校というものは、実社会で必要なことだけを教える場ではありません。例えば多くの文系の学生は、その将来の職業的にも生物の知識が全く必要ないとしても、生物という教科を学習しますし、現代では全く使われないとしても古文・漢文に触れます。これらは教養教育です。人間が生み出し、見つけ出した、様々な物や文化を教えてくれるのです。これらは人生を豊かにしてくれるものだと僕は考えます。英語も教養の一つとして学んでいると捉えてはどうでしょうか。そうすると、義務教育の意義も見えてきます。
僕がこの記事で言いたかったのは、そうした教育が身についていない、役立てたいというときに役立たないという今日の(昔からなのでしょうか?)不満に対する解消策として、英語教育をマイナーチェンジしてはどうかというものです。貴方のおっしゃるレベルには到底達するものではないことは重々承知しておりますが、いくぶんかマシな結果になると思います。日本人が喋られないのは喋ったことがないからでしょう。では、喋らせて学習させようじゃないかというのが僕の意見です。その時に、勿論、それ以外の英語学習も怠ってはなりません。しかし、貴方は内的欲求として英語で喋ろうという気持ちがないから無駄たと思われるかもしれませんが、動機付けには色々手段が考えられると思います。その辺が教師の腕の見せ所になってくるのでしょう。
投稿: SIR-5 | 2006年10月 5日 (木曜日) 12時39分
議論の続きです。
>12歳ぐらいの子が自分の将来を見据えて選択をする能力があるのでしょうか。
親にはあるでしょう。子供の教育権は第一義的に親にあります。将来英語を仕事として使用する可能性のある日本人は7%と云われています。英語など出来なくても充分に食べて行けます。
>実践こそ肝要と声高におっしゃってきた貴方にとって、それで事足りるのかと思ったわけです。
足りるわけはないでしょう。ラジオ講座は勉強法の一例としてあげただけです。ただ私は英語の早期教育や海外留学をしたわけでもなく、少々英語が出来るようになったのは30才を過ぎてからです。要するに今はやりの英語教育には疑問を持っている根拠を提示したのです。ラジオ講座で使用しているのは岩村圭南氏の「徹底トレーニング英会話」です。岩村氏の放送は10年以上聴いています。目的はcolloquialな表現を身につけるため、「ビジネス英会話」は私とは畑違いですから役に立ちませんし、実際に英語を使用して実務をしている立場から見れば、中味ははなはだ浅いと云わねばなりません。より難度の高い英語を聴きたければBBCがお勧めです。
>学校というものは、実社会で必要なことだけを教える場ではありません。例えば多くの文系の学生は、その将来の職業的にも生物の知識が全く必要ないとしても、生物という教科を学習しますし
全くお説の通りです。学校教育は人生で学ぶことの基礎となるもので、学校で学んだことが即、社会に出て役立つことはほとんどないのです。私のような技術系の人間でも大学迄に学んだことは実社会で学んだことに比べればその1/10にも達しません。重要なのは社会に出てからも学び続ける努力なのです。子供達にそのような資質をそだてること、それが教育の本質なのです。
ところが、文部省の「英語が使える日本人の育成-戦略構想」によると、日本人すべてが高校卒業時には日常会話ができ、大学卒業時には英語で仕事が出来ることを目標とし(正気の沙汰とは思えませんが)、その一環として「小学校英語」を導入し、その準備段階として会話を中心とした英語教育を推進しています。学校教育が実に短絡的、近視眼的な目標にゆがめられ、最も大切な人間づくりが忘れられています。
英語やパソコンなどは自動車の運転などと同じく一種の技能です。何歳からでも学べます。私の叔母は75才でパソコンを習い、今は句会誌を発行しています。外国語だって必要があれば社会に出てからでも誰でも身につけられます。大相撲の外国人力士がその代表例です。把瑠都関など何か国語が出来るのですかね、エストニア語、当然フィン語、本人はスウェーデン系だからスウェーデン語、それにロシア語、ドイツ語、英語+日本語、何年も英会話学校に通う日本人は馬鹿に見えます。彼にとっては習得する必要があったからでしょう。日本人選手を含めほとんどにテニスのランキングプレーヤーが英語が出来るのも同じ理由ですし、柔道の山下、陸上の室伏、水泳の鈴木といった金メダリストが英語に堪能なのも当然と云わねばなりません。
ほとんどの日本人が英語を話せないのはその必要がないからです。人間の頭はうまくできていて、役に立たぬこと、必要ないことはきれいさっぱりと忘れるようにプログラムされているのです。実際に空腹を覚えていないのに"I'm hungry"なる英語表現を覚えてもすぐに忘れます。東南アジアの観光地の物売りのオバチャンは日本語を覚えれば一家を支えられますから、いくらでもうまくなれます。
日本の学校で外国語会話を教えるのは鸚鵡や九官鳥に言葉を教えるのと全く同じです。ナンセンス以外のなにものでもありません。
学校で役立つ英語教育はただ一つ、受験英語です。世界が広がります(冒頭の私の投書を参照して下さい)。受験は真剣勝負です。努力が報われます。さらに学習を続ければ学術論文や公文書が読め、商業通信文、仕様書、特許が書けます。それが出来るのは英米人でもほんの一握りの人間だけです。この段階になれば会話など後ろからついて来ます。このようにして学んだ英語が価値を持つのです。これを以て私の結論とします。
投稿: 50名山 | 2006年10月 6日 (金曜日) 00時47分
コメントありがとうございます。
ひとつだけ反論させていただきます。親の判断がすべて正しいわけがありませんので、英語教育を受けるか否かという意思決定に自らが積極的に参画しない限り、後悔すると思います。
貴方のおっしゃるように、高校での受験に向けた英語教育は馬鹿にはできませんね。あの時は充実していたと今になって思います。BBCですか・・・。いずれ聴きたいです。今は機材的に無理ですから、ラジオなどで頑張ります。
またコメントをお寄せくださる日を楽しみにしております。
投稿: SIR-5 | 2006年10月 6日 (金曜日) 12時44分